上野 君子
神社で感じること
最近、いろいろな縁あって、神社に行く機会が増えた。
いい気が流れているのを感じるし、自然や風土、また自分自身がこうして存在していることへの感謝の気持ちが足を向かせるのだ。
ところが、神社やお寺に馴染む環境で育たなかったせいで、知識や作法に乏しいため、拝礼の仕方は間違えるし、さらには馬鹿な質問をしてしまう。
ご祈祷の初穂料が何段階かあるが、それはどういう違いがあるのか。お札が何種類かある時、それはどういう基準で選べばいいのか。
ところが神社というところは、知っていて当然という感覚があるのか、他の宗教、例えば仏教のお寺やキリスト教の教会が総じて親切なところが多いのに対し、神社の窓口にいる人たちは教育がされていない印象を受ける。はっきりいうと、若い人たちも皆上から目線だ(深い知識があるとも思えない)。
一般のサービス業と同レベルの接客とはいわないまでも、もう少し相手の気持ちに歩み寄った応対はできないものかと思う。こんなことは恐れ多くて、誰も言わないのだろう。
この秋、相模一之宮といわれる大きな神社に行った時、そっけない態度の窓口の人の態度に落胆したのだが、その神社境内にある資料館に座っていた係の人に、この人ならと思って質問したら、丁寧に応対してくれた。私はそれに救われた。
「普通のご祈祷なら一番価格の安いもので十分ですよ。お札も、お家によっては宗教の違いなどで神棚を設けたりできない家もあるはずなので、箱に入れて上の方に置いておくだけでも十分ですよ」
こういってはなんだが、結局は宗教も”人“との出会いによるものだと思う。
かの劇作家・小説家の井上ひさしはキリスト教の洗礼を受けていたが、それはカトリックの孤児院で育った子供時代、献身的に働いていたカナダ人修道士たちに感動したからという記述を以前、彼の著作で読んだことがある。