船橋 芳信

2018 17 May

ヴァルター・ベンヤミンのパサージュ論

ヴァルター・ベンヤミンのパサージュ論に虜になっている。19世紀パリに現われたパサージュ、通り、通路、を始め物質文明に目を凝らし人間の欲望や夢、ユートピアを考察したベンヤミンの膨大なメモである。歴史の中に潜む人間の生活感、思い、日常の単純な望み、嗜好、それらが日々重なり合って時間の重なりの中で、通りを生み出し、装飾が施され、それに政治的意向が反映されて街の形が、性格づけられ、都市が生まれて行く。其の細部に入り込んで行く街の人々の会話、散策、人の流れ、雑誌に記載されて行く数々の文章、いち日の時間の流れの中に、モードの形成を発見し、社会性へのモード、流行の意味を解き明かして行く。其の流れの中に社会の階級闘争が露になり細分化されて、物質への考察が、向かうべき社会の未来、人間の社会への分析を導いている。

今日のモードの本質を理解する為には、変化を求める気持ち美的感覚、お洒落癖、模倣本能など、、、といった個人的な動機にこだわってはならない。こうした動機がそれぞれの時代に、衣装の型を決めるのに関わったのは間違いない。だが、今日の意味でのモードには、個人的な動機は無く、あるのは社会的な動機であってこの事を正しく認識しなくては其の本質全体を理解する事はできない。それは、上下かんけいが自分より下の階級から、より正しくは中流階級から区別されようとする努力なのである。モードは絶えず新たに取り払われるが故に常に新たに誇示される障壁であって、これによって上流階級は中流社会から隔絶していようとする。これは身分上のの虚栄心のいたちごっこであって、同じような現象が絶えず繰り返されている。一方は、後から追っかけて来るものより僅かでもリードを保とうと努力し、他方は、新しいモードを早速に真似て追いつこうと努力する。このことから今日のモードに特徴的な様相が説明される。第一に先ず上流社会でモードが生まれそれが中リュ階層で真似られるのである。モードは上から下へ広がって行くのであって、決して下から上にはゆかない。中流階層が新しいモードを流行らせようと試みても、、決してうまくはゆかない。上流階級に取っては、中流階級が中流階級だけの独自のモードを生み出す事程望ましい事は無いのである。とは言ってもパリの半社交界の掃き溜めの中に新しいモードの原形を探したり、出処が猥らなのがはっきりしているモードを流行らせる事もないわけではない。第二に、モードは絶えず変遷して行く。中流階級が新しい流行のモードを取り入れると、これは上流階級に取ってはもう価値のないものになる。。それゆえ斬新さがモードの不可欠の条件である。モードの寿命は其の流行の普及速度に逆比例し、我々の時代では、コミュニケーション手段がより安全になってモード伝播の手段も増えただけに益々短命になっている。今日のモードの第三の特徴は、其の、、、暴君的なところであるが、これも先に挙げた社会的動機から説明される。モードには人が「共に上流社会に属してる」と言う外的な基準が含まれている。この事を放棄しようとしないものは、たとえ、、新たに流行しているモードをどれほど非難しようとも、この流行を追わざるをえない。モードに対する判決はこのようなものなのである。弱体で愚かでモードを真似てばかりいる階層も、自己の尊厳に目覚めて自負心を持つようになると、モードの命運は尽きるであろう。そして身分の違いを衣装によって強調する必要をかんじたこともない民族や、必要なら身分の違いに敬意を払うぐらいの分別を備えていた全ての民族に於いて主張されたように、美が再びその本来の居場所を構えることが出来るようになろう。

1883年ルドルフ・フォン・イェーリング著「法における目的」

19世紀後半に書かれたモードへの考察である。ファッション業界で、このモード、ファッションへの考え方で、仕事に携わっている人は皆無ではないだろうか?マネーゲーム化したファッション業界に、服作りへの動機を再考させてくれる。