船橋 芳信

2020 25 Apr

コロナヴィールス騒ぎと昭和3

 

 

少年マガジン創刊号横綱朝潮

卓球一筋だった高校時代の成績は、とても早稲田を受けると先生には言えなかった。なにせ、学年でも後ろから数えたほうが早い成績だった。                                 一浪は覚悟の上だったとはいえ、2浪だけは避けたかった。大学は早稲田と決めていた。しかも文学部、文学部に決めたのは、高三の講演会で、                     津島佑子の文学の話を聞いた。津島佑子のご主人は作家の吉村昭、津島佑子は太宰治の娘さんだった。                                       津島佑子の話は、具体的な事は何も憶えていない。唯、初めて接した文学という言葉が心の中に深く突き刺さってしまった。                             文学部なら誰でも入れるだろうと、大学は早稲田と一人勝手に決めていた。しかし、文学を目指したわけではなかった。                               小説の一つさえ読んだことはなかったのだから。早稲田は、第一文学部と第二文学部を受けた。なんとか二文に引っかかってくれた。                         晴れて大学生となった。アパートは西武新宿線上石神井駅徒歩3分の楓樹荘、四畳半に住んだ。                                           仕送りは月に2万円、家賃は一ヶ月4千5百円だった。長崎から上京するのに、夜行寝台列車あかつきに乗った。                                    約20時間の長旅だった。まだ新幹線もない時代、東京は遠かった。

  1970年入学はしたものの、世の中は、学生安保闘争の真っ只中、入学後2ヶ月もしないうちに、革マル派による文学部バリケード封鎖、                        大学はいきなり休校となった。それでも級友たちは何をしているのか、気になりながら大学へ通っていた。                                     仲間内での勉強会を開いていたり、加わってはみても、まるでちんぷんかんぷん、文学の討論、哲学の討論、政治討論、どれ一つ分からなかった。                   学友の読んでる本を聞き、読んでみる。マルセル・プルーストの失われた時を求めて、時間が如何の、ランボーとベルレーヌの詩作について、                                                                 カミュ、ボーボアール、サルトル、ニーチェ、キルケゴール、級友たちが、異星人に見えて仕方なかった。                                     髪は長髪、ベルボトムのジーパン、気の利いた奴は、ジュン、ロペのジャケット、加えて、アメリカンカジュアルのヴァン、                              長崎の田舎出からすると、皆ハイカラで、眩しかった。     大学でやりたいことが一つあった。報道カメラマンを志望していた。                            ロバート・キャパのちょっとピンぼけ、を読み、報道カメラマンに憧れた。写真部の部室は、本部の4号館商学部の地下にあった。                           写真部は、コマーシャル部門と報道部門に分かれていた。長崎の自宅にあったカメラを持って来ていた。                                      先輩諸氏は、ニコン、キャノン、ミノルタ、の一眼レフ、高級カメラを愛でるが如く使っていた。                                         「今日は,青山通りでデモを撮りに行くぞ!18:00現地集合」先輩の号令に、ミノルタSRT101を肩に、シロクロフィルム、TRYXを装填して向かった。                  機動隊が黒い暗雲を込めた塊に見える。集団で動く機動隊は、ゴキブリ軍団のようで、気味が悪い。                                        学生たちは、拡声器で安保反対、産学協同反対、米軍基地の即時撤退、シュプレヒコールにジグザグデモで気勢を上げていた。                            彼らの格好は、バンダナのマスクにヘルメット、時代の放たれた時間に身を任せ、現実の時代の壁を切り裂いている実感を共有していた。                       報道カメラマン志望の私は、正直ビビった。政治に中立にあらねばならない報道というポジション、どうしても思想的確信がない身には、                       機動隊に向かってカメラをレンズを覗けない。カメラを機動隊に向けれない葛藤を生じてしまった。デモの現場でのそこに居る存在動機が、                      持てないことには、行動は起こせない。余りにもかんたんに報道カメラマンの夢は挫折してしまった。                                       上石神井の4畳半のアパートには友人が度々訪れるようになった。学生時代から、料理、嗜好品に興味があり、                                    コーヒーは、焙煎された珈琲豆を挽いてドリップ、またはサイフォンコーヒーを飲んで気取っていた。そう、気取っていたのだった。                         ネッスルのインスタントコーヒ−しか知らなかった級友達には、大いに人気を博した。                                               買い置きのインスタントラーメンも食べ尽くし、食費に詰まると大家の庭から、菊の葉っぱを失敬して、天婦羅にして醤油をかけ、ご飯のオカズにした。                 4畳半の畳の上には、机と椅子、冬はコタツの万年床。一畳の2段押入れ、丸井の月賦で、なけなしのお金で買ったステレオ、本箱、これだけの調度品。                そうだ、学生時代幾度となく丸井で月賦でいろんなものを購入した。                                                       4畳半の入り口は1メートル四方の土間、脇に洗面台とガスコンロ、洗濯機は共用、トイレも共用、風呂はないから近くの銭湯へ行く。                        近所の喫茶店、ゆりんには、良く行った。ジュークボックスには、由紀さおりの夜明けのスキャットが流れていた。                                 近くにあった芸大の寮生達がたむろしていた。上石神井には音大生も多く住んでいた。ゆりんで知り合った、ピアノ科の佐藤初枝女史は、多くの音楽会の切符を持っていた。       誘われて二期会のモーツァルトのフィガロの結婚のコンサート形式の音楽会に 連れて行かれた。                                         ソプラノの田村さんは伯爵夫人を歌っていた。                                                                私にはどうしてあんなにヒャーヒャー歌うのかが理解出来ず、言った。                                                    「田村さんも少しまともには歌わないんですか?」                                                               田村さんは怒って言った。                                                                        「もう来ないで頂戴!」                                                                          初枝女史は、私の興味引きそうな演奏会を選んでいた。                                                            武満徹、作曲 カシオペア初演、指揮若杉弘、打楽器奏者、ツトム・ヤマシタ、素晴らしかった。                                          初めて聴いた交響曲の音の競演に、身体の弦が  鳴り響いてしまった。                                                      新宿厚生年金ホール、劇場の魅力に取り付かれる始まりだった。                                                         同級生の浅田誠氏が、芝居をしないかと誘われた。二つ返事で参加した。劇団名はバーミヤンドギルド社。アングラ劇団だった。                           日常空間に刃物で切り裂き、何が起こるのかを即興的に立ち居振舞うやや即興劇だ。暴力とのコミュニケーションがあった。                             昭和は混沌としていて、良識に収まって行くのか、爆発的に膨張して行くのか、そんなエネルギーが、充溢していた。                                その原因は、太平洋戦争で受けた負荷、と明治大正と続く日本人のアイデンティティとの確執があったように思える。                                学生たちは、クラッシックな伝統、既成概念を嫌い、新しい感覚へとのめり込んでいった昭和である。                                       昭和時代が残した爪痕は、高度成長期に置ける経済の発展とそれに伴う哲学と倫理観の喪失であろう。                                       日本列島改造論に始まる、物質主義、便利さの狂奔たる追求による高度成長、その時間の中で受けるストレスも意に介せず、昭和は金欲主義に走ってしまった。             そんな亀裂の迫間で、作家三島由紀夫が、我ら戦後世代に強烈なメッセージとしてのパフォーマンスを演出し、自刃した。                               昭和は、昭和天皇の存在が、国民にその存在感を示していた時代でもあった。