船橋 芳信

2020 25 Apr

コロナヴィールス騒ぎと昭和の時代 2

カップラーメンは良く食べた。1969年、昭和44年、大学受験に失敗し、東京へ再上京、王子豊島の浪人下宿に6畳の部屋を借りた。夕食の賄い付きで、家賃は6千円だった。新潟、沖縄、秋田、いろんな地方出身者が集まっていた.殆どが大塚予備校に通っていた。私は、独学で勉強すると、予備校には行かなかった。初めての東京生活ではあったが、どこへも出かけなかった。  沖縄出身の高良と友達になった。この時代は沖縄はまだ、アメリカの占領下に有った。沖縄の学生は国立大学に、有利な条件を国が与えていて、留学制度を利用すると、東大、一ツ橋と有名大学に入る可能性を持っていた。故に同じ浪人生とはいえ、高良は優雅であった。日曜日になると新宿の歌声喫茶に出かけ、今日の成果を皆に披露していた。在る日曜日、高良と新宿の歌声喫茶に出かけて行った。その頃の新宿には、フーテンと呼ばれるシンナー中毒の若者がたむろしていた。ビニール袋にシンナーを入れ、新宿駅の階段に座り込んで、虚ろな目をして、スーハー、スーハーしている。奇態な人種を見る思いで、眺めていたのを思い出す。歌声喫茶の名前は、カチューシャだの歌声だの、店内に入いると、音頭をとる司会者は、ロシア風の衣装をつけ、ロシア民謡ばかりを歌わせていた。後で知ったのだが、この歌声喫茶は、共産党系の下部組織、民主主義青年同盟、所謂民生のグループが歌で会員を募っていたのであった。       昭和は、自由主義と、共産主義とがしのぎを削っていた時代でもあった。みんなで歌う歌声喫茶は確かにエネルギー発散には、みんなが酔いしれた、今思うと不思議な体験であった。   結果、好きにはなれなくて、行くことはなくなった。今でもカラオケが嫌いなのは、あの歌声喫茶の、さあみんな仲良く一緒にさあ歌おう!という気持ち悪いものと似たものがあるからに違いない。                                                                                  昭和の小学生、男女共学、アメリカの占領下、ひとクラス55人いて、一学年10クラス、こんなに同級生が、いた。それで、二人机に、男子、女子と並んで席にすわらせられた。     二人机の半分真ん中に、ナイフで、陣地決めの線を引きました。隣の席の女の子のノートが、線からはみ出ると、すかさずノートを、パーンと、押し出して、一言、[オイ、出とったぞ!(これは長崎弁)女の垢がつく] 正に男尊女卑の昭和でした。                                                             話は、飛んで、高校一年生時代の話です。ラグビー部の橋本は、クラブの始まる時、先輩の命令で、校門前にある老人夫婦の駄菓子屋から、パンと牛乳を、取ってこい!と、毎日牛乳三本、4、5本、菓子パン5-6個を盗んでいた。ある日、おばさんの居ないのを、見計らい、木箱にいつも通り、牛乳、菓子パンを取って振り向いたら、そこに、おばさんが、立って居た。エッ、と慌てた橋本は、木箱を慌てて、置いた。しまった、バレた❗️と心臓が、バクりまくった。                                              [よか!よか!持ってゆかんね!] おばさんは、橋本にそう言い聞かせて、店の奥に入って行った。橋本は、去年の同窓会でこの話をした。                        [何年も経ってからさ。突然あの日のことを、思い出したんさ。あの夫婦、おいが毎日牛乳、菓子パン盗みに来とった事、知っとったとかと。(あの子供達、腹ば空かしとっとぞ!食べさせてやれ!)と❗️有り難かったよ!]老夫婦は、飢えの辛さを知っていたんだろうね。相手の身になって考える社会の習慣が、穏やかに、蔓延っていた昭和でした。

ある日、高校の同級生、永山亜紀子からはがきが届いた。彼女は成績優秀な学生だったから、東京女子大に現役で一年生だという。                          船橋君、会いませんか?、浪人生の引け目で、あまり気が進まなかった。とりあえず、電話してみた。                                        電話の向こうは華の女子大生、受話器に、明るい声が響いてくる。もう勝手に会う場所を指定してきた。                                      やはり新宿だった。新宿駅の東口、凮月堂が行きつけなのよ。そこに15:00,喫茶店に入って、階段上がって、二階の席で会いましょう!                        気は進まなかったが、女の誘いに嫌もないな!と、出かけて行った。本心は、飛び上がるほど嬉しかったのです。                                  何故なら彼女は高校時代の憧れの人だったからでした。上京しての浪人時代、喫茶店のコーヒー、あの当時80円、100円だったかな?                         新宿にはビート族というフーテングループと紀伊国屋族という新興グループがいがみ合っていた時代でした。                                    ビート族はジャズ系、紀伊国屋族は、ロック系、皆シンナーマリファナ、ハイミナールなどの幻覚剤を飲んでラリっていた頃です。                           指定された凮月堂は、ビート族の溜まりがだったんです。前衛アーティスト、寺山修司の天井桟敷、唐十郎の赤テントらの演劇人、                          ビート族のフーテン、行った事も無いパリに在る、クーポールや、サンジェルマンのドゥエマーギのように、其処に集まってる人達で                         生み出され作られた空間だった。喫茶店の中は吹き抜けの一階は高い天井、壁に回廊の2階があった。音楽はバロック音楽が延々と鳴っていました。                   凮月堂は、タバコの煙が充満し、ロングヘアーのアーティスト風の連中で、男も女も一杯だった。二回に上って空いてるテーブルに座って、コーヒーを注文した。            外人、多分アメリカ人が空いてるか?と合席に座った。程なく、久しぶり!と永山がやって来た。前に座ると、元気?、どうしてる? と聞いてくる。                  ストレートの長い髪に真っ赤な口紅、大きく見開いた瞳は、開放感に溢れ、まばゆいほどだった。バックからタバコと取り出すとタバコを吸い始めた。                 横に合席した外人が何やら喋り出す。彼女は英語で受け答えている。あっと言う間に、女子大生とのランデブーは終わり、浪人生活に戻っていった。                  其れから12年程経って、ミラノのアパートに永山から手紙が届いた。今パリにいます。結婚して、エアーフランスの乗務員をしています。                        パリに来ることがあれば、是非連絡して下さい。                                                               新宿は昭和の時代、我が青春の町でもある。