船橋 芳信

2020 25 Apr

コロナヴィールス騒ぎと昭和の時代

 
コロナヴィールスに依る自宅待機、都市ブロックダウンは、いつもと違う日常生活を演出してくれている。
外出が禁止されている。人と人が接触すると感染が広がり、社会生活、終には生命をも脅かす。
実際にイタリアでは、4月23日現在、既に24000人の尊い命が失われている。
 人の経済活動が止まると、自然が生き生きと蘇ってくる。
激減したトラフィック、自動車の交通量は、まばらに走るタクシー、パトロールカーのみ、
あれほど汚染されていた空気が、透明感を増し、街は静けさが蘇ってきた。
 家から出れない不便さ、しかし自己申告書携帯の上で、買い物、少しの散歩は、許される。
此れ迄の日常との明らかな差異に、取り戻せた精神的な落ち着きに驚きを隠せない。
必要経費としての家賃、高熱代、それに少しの食料、此れがあれば、生きて行ける最低生活を体験している。
 日本の友人からマスクとインスタントラーメンが送られてきた。
チキンラーメン、懐かしい、カップラーメン、良く食べた、どれもが昭和の30年代から出て来たインスタントラーメンである。
 インスタントラーメンが、昭和の時代を懐かしく喚起させてみる。どんな時代だったんだろうか?
 昭和の思い出を、綴ってみた。
チキンラーメンは1958年に発売され、あっというまにわ日本中を、席巻した。
日清製粉はこれで昭和時代を乗り切りました。たんなる、鳥のガラ出汁醤油で麺を煮込み、
それを乾麺にして売り出しました。売り文句は、熱湯をかけ、3分で出来上がり。
子供の頃は、よくオヤツ代わりに食べたものです。その、三年後インスタントラーメン、出前一丁、サッポロ一番、マルタイラーメン、明星、、
ありとあらゆるインスタントラーメンが出現しました。これは、昭和を名残る味です。
日本列島改造論はチキンラーメンの上昇気流の流れに乗って生まれたのです。
昭和の化学調味料の味さえも、今では口にはしない物の、懐かしい味ではある。
 チキンラーメンは昭和を喚起してくれる。
長崎市八百屋町10番地が生家である。裏には勝山小学校があった、と言うより勝山小学校の裏道の石畳が、我が八百屋町である。
その昔、1600年以降、長崎が開港仕立ての頃、、長崎の港に南蛮船が、船泊り、(自宅から約1キロの距離)に停泊すると、
長崎奉行所迄通関手続きに八百屋町の通りを通った。世が世であれば長崎のメイン通りとも言える八百屋町であった。
勝山小学校の敷地内には、サント・ドミンゴ教会跡、末次平蔵長崎奉行屋敷跡がのこされている。
そして、私の幼少の頃は 、長崎奉行所後には知事官舎があった。その官舎内の庭を、自分らの遊び場にしていた。
幼少の頃は、子供といえども、各町内毎に、縄張りを持っていた。 その縄張りは、線引きされていたわけではなく、
この辺迄は、八百屋町の縄張り、勝山町、上町の子供達は八百屋町を通る時は、何やら緊張感を持っていたものである。
知事官舎は、八百屋町の縄張りになっていた。子供のボス的存在が、八百屋町に居たのである。
彼は、今思うと不思議な名前だった。ピントンシャンと呼ばれていた。多分中国人だった。
知事官舎の中に、下水道のトンネルが有った。
そこの中にトロ箱で掘っ立て小屋を作って、遊び場にしていた。二つ年上の鉄ちゃんは、ませた子供で、
やたらと大人の遊びをやりたがっていた。少し嫌らしい事を話すが、、チンポコを見せ合うように強要したり、
近所の女の子を連れてきて、その子のお腹にチンポコをくっつけろと命令された。まだ、小学校1年生の頃だ。
隣の武とは仲が悪かった。会うといつも喧嘩していた。武は、魚屋の三男だった。途中で引っ越してきたから、
中々、八百屋町グループには溶け込まなかった。その武から、チンポコをくっ付けるのを、見られてしまった。
小学校一年生の武は、ませていたのか、『見たぞ!見たぞ!、腹が膨らむとぞ!』どういう事になるのか、
訳は分からないながら、それからというもの、その娘の顔を見ると不安にかられたのを思い出す。
未だこの頃は、漫画は無かった時代である。小学校4年生になると、街には、貸し本屋が至る所にお店を構え始めていた。
マンガの単行本、週刊マガジン、週刊サンデー、少女漫画は多分あったと思うが、見なかったので良くは、知らない。
その頃の大人にとって、漫画は新しいジャンルで、漫画を読むと頭が悪くなると、いつも怒られていた。
昭和30年代に入ると、街角のお菓子屋には、路面に面してテレビが通る人向けに、見せるように置いてあった。
栃錦、若乃花、千代の山、相撲中継、力道山、ブラッシー、プロレス中継がある時は、人だかりができていた。。 
小学校では、ひたすら遊びまくった。諏訪ノ森にパチンコで山鳩を撃ちに行ったり、お諏訪神社の池にいるスッポンを取りに行ったり、 
夏は、一夏中、田舎で釣りをしたり、泳いだり、伝馬船を漕いであそびまくった。
小学校4年生の夏、其れまで長い長い夏休みが早く終われ早く終われと念じた夏休み、
4年生の夏休みは、割と早く終わったように感じた。海はギラギラと太陽を照らし、空は群青の青が何処までも高く、
白く膨れ上がる入道雲は、剛毅だった。
9月に入ると、一ヶ月が過ぎ、運動会が去っていった。ふと、不安になった。
早く終われと願った夏休み、時間は想いと連動するんだと、焦ったのを思い出す。
時々時間よ、遅く進め遅く進めと、念じた小学四年生だった。
この頃になると、チンポコ事件は、忘却の彼方へと去っていった。
 中学時代は、映画にハマった。なんとエルビス・プレスリーの映画に夢中になってしまった。来る映画はほとんど見た。
そして夢見たアメリカ行き、親に泣きついて買ってもらったステレオ、鳴らす音楽はプレスリー、
先隣の由美子を誘って映画に行った。狭い長崎の繁華街にある映画館まで、由美子に、後5メーターを付いて来いと、
この当時、男女、カップルでは歩けませんでした。
誰に教わった訳でもなく、只、昭和の時代のイニシアチブをとっていたのは紛れもなく、
明治、大正の時代を通って来た大人たちの感覚でした。由美子の実家は八百屋さんでした。
大学に行くため上京した時、由美子から手紙が届きました。
『結婚して東京に住んでいます。良かったら、会いませんか?』 新宿の高野フルーツパーラーの前で、待ち合わせしたのです。
約束の時間、由美子はすっかり大人の女性になっていました。
あった瞬間、アッ‼️と驚きました。由美子は妊娠して、大きなお腹を抱えていたのです。
 日常の出来事が、未だ未だ自分の体に纏わり付く範囲で、時間は廻っていた、そんな昭和時代、昭和時間に息をしていた。