船橋 芳信

2020 25 Jun

日本語文法の誤り!

述語制言語とは、

イタリアに生活して40年、未だにしっくりと来ないイタリア語、その理由がはっきりと理解できた。

実に単純な事だった。日本語に主語がない。時制がない。我々が習ってきた日本語の文法、主語述語の文法が、間違っている。

昔から、考えていた事の一説に、川端康成の雪国の冒頭、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」の英語の翻訳では、

It was a snowy country when the train passed through a long border tunnel.とでもなるのだろうか?

先日も英語でのメイル返信に、逆に主語を抜かしたり、数の確定、単数、複数を曖昧にしてたり、日本語仕様での英語を使ってしまう。

英語もイタリア語も日本語も主語制と教わっていたから、日本語を翻訳するようにイタリア語を使ってしまう。

言葉使いの上手い下手の話していると、話相手からは、誰が下手なのか?君がか?其の相手が下手なのか?と尋ねられる。

私の頭の中では、情景が浮かび、其の情景は話し相手も共有していると錯覚する。現実に発せられた言葉に依る意味しか、

ここ主語制言語たるイタリア語、英語では通用しない。述語制日本語では、例えば、古池や蛙飛び込む水の音、

此の俳句の情景は、わびしい、静かな風景の中に、旧い池が佇んである。時間が止まった静けさを破るように、カエルが、池に飛び込む。

水の音が、水面に波紋を描いて行く。そんな風に共有できる情景を日本語は持っている。

 この「古池や蛙飛び込む水の音」の俳句を英訳イタリア語訳に訳せるだろうか?

旧い池があります。一匹のカエルが池に飛び込みました。ポチャンと水の音がしました。

 きっとこんな訳になると思うが、カエルが跳びこんだ、その結果、水の音がした、それがどうした?と考えるだろう。

 相手の身になって考えるという習慣が、我々日本人には染み込んでいる観念である。                                                                                              しかしここヨーロッパでは、相手の身になって考える人間は何処にもいない。                                                                                                日本語には主語がない、此の事を理解し、イタリア生活での会話に応用してると耳にイタリア語が入ってくるしイタリア語を読むようになってくる。

これは、政治の世界でも、特に対外国との交渉、には必要不可欠な思考である。特に対アメリカとの交渉には、論理的に有効性を発揮するに違いない。

唯問題は、此の日本語文法の間違いを、日本人が、認めない事である。日本語文法の新しい要項に着手する事にならない多くの無知との戦いが、

繰り広げられるだろう。何故なら、海外での生活する日本人が、毎日、日常的に感じる日本語の不可思議な言語体験から、疎外感を感じるからである。

日本語に主語はない。

しかし述語制言語としての表現能力、論理性、本来の日本語の持つ言葉の力に立ち戻って、日本の国が繁栄していって欲しい。