内田 文雄

2017 25 Dec

私が中国で起業することになったキッカケ 9!(中国支援と、ジルサンダーさんとの出会い編)

前回書かせて頂いたように、2005年当時は香港、韓国へのローンチ業務と並行しながら、もちろん国内ユニクロの大型店化に伴う基盤構築、そして売上の屋台骨である日本の標準店舗(660㎡規模)の売上向上活性化を行っていました。

 

同時に私が将来起業しようと思っている中国、その中国ユニクロ事業にも深く関与していました。2002年にローンチした中国上海、正直言って知名度も無いなか、私が入社した2005年は上海市内だけの出店網(7店舗)で、なかなかブレークスルーしてない状況でした。2006年北京に同時に2店舗をオープンさせるも、赤字続きで1年も持たず閉店と結果は散々たるものでした。

当時の中国事業の問題点は、ユニクロを中国マーケットのなかでどのポジションに位置させるのか?が不明確だったのではないかと思います。つまり、誰に、何を、どのように売るのか?さえ見えていなかった。

 

そこで、当時中国で年々倍増、伸張していた「中産階級層」をターゲットにする、という大方針の元、巻き返しを掛けて、2006年7月に上海の徐家匯の港匯広場(中産階級層が集う、当時の中国で人気No1のモール)に標準店を出して、店舗内装、商品、接客サービスまで一新させました。上海の敏感な消費者はユニクロが変わった!と気づき、業界にも知れ渡り、お客さんがどんどん来ていただけるようになりました。そしてこの勢いに乗り浦東の正大広場に旗艦店(2,100㎡)をオープンさせました。この2店舗の新規出店の成功が中国ユニクロのターニングポイントになったのだと実感しました。

オープン初日は入店待ちのお客さんが500人くらい並ばれました

正大広場、確かに当時はアジア最大の旗艦店でした

 

 

当時この上海2店舗での成功要因を見極め、北京にリベンジする機運が高まっていました。上海の成功要因は上述の通りで、漠然と中国の人々にアピールしても響かない。急激に層を厚くし始めた中産階級の人達にユニクロの良さを知ってもらう必要があると。

その後、北京でのリベンジに成功したわけですが、当時は世の中が激しく変わる過渡期でもあり、中産階級層から中国全国民に愛してもらえる服へと戦略の再設定が行われた時期でもあります。

 

2005年の7店舗から、今や555店舗(17年9月末時点)規模まで達しており、毎年50店舗弱を出店していることになります。単純に店舗網を築くことは難しくは無いと思いますが、重要なことは「売上、利益が取れる店舗を出店せよ!」というTOP方針だと思います、しっかりとマーケットリサーチをして、吟味して吟味しても手堅く売れる店だけを出店していく!これが凄くユニクロらしいと思います。

 

当時私は日本や香港、韓国、そして米国、英国のユニクロと業務範囲は広がっていましたが、私が第二の故郷と言ってもはばからない中国には毎月の様に出張に来ていました。出店スピードも加速するなか、自ら新店のオープン準備もしつつ、売場VMD教育面で人が追いついていない事もあり、中国ユニクロ本部でのVMD人材採用などにも立ち会っていました。今でも当時外部や店舗から採用したVMDスタッフが頑張っている事は、私自身本当に嬉しい事です。

 

入社から2年が経った2007年、世界がアッと驚く様なコラボレーションが発表されました。そうです、あのミニマルなデザインが特徴のジルサンダーさんとユニクロが手を組み「+J(プラスジェイ)」というブランド名で商品を販売すると。

このコラボのことは、実は薄々とは知ってはいたのですが驚きましたね。何故なら、ミニマリズム(あまり派手な装飾をせずに機能的な部分や美しさを求める)の代表的デザイナーの彼女と、相反するところに位置するユニクロが果たして、うまく噛み合うのだろうか?と。

 

そして、その渦の中に深く深く私も関与していくことになるのです。

 

次回「楽しかった+JのVMD編」です

 

それでは!