北村 禎宏

2020 06 Apr

事実と認識の間にあるもの

 私たちはふつう「客観的事実」がひとつだけ確実なものとして存在すると考える。はたして本当にそうなのだろうか?

 いま私は一台のパソコンに向かってブログを書いている。これは客観的事実ともいえるが、私が主観的にそのように認識しているだけで、私以外の観察者がいなければ客観的事実としてのPCに向かっている私は私の主観の中以外にはどこにも存在しないことになる。第三者が観察してその人も同じ主観的認識をしてくれたときにはじめてパソコンで文章を綴っているひとりの男がそこにいることになる。

 ここまでは哲学的な議論だが、量子物理学の世界にも私たちの日常からは考えにくいさまざまな事象がある。そこには連続性はなく「飛び飛び」があるだけだ。状態は確率的に存在しているので私たちがもとの状態をそのままで観測することはできない。観測には電子をぶつけるしか方法がないので、その瞬間にもとの状態ではなくなってしまうからだ。意味不明の方は、シュレディンガーの猫、多世界解釈などを検索してみるとよい。

 そうすると、事実⇒観察(観測)⇒認識までの間にはとほうもない距離とランダム性というギャンブルが存在していることになる。いま私たちの足元で事実は確実に進行しているが、それは今この瞬間も現在進行形で動き続けており、人やモノの動きはランダムに無数の可能性のなかから選び取られていくので、起こり得る未来も無限の組み合わせの果てにある瞬間がギャンブルのように規定されることになる。

 しかも、今回の事象における観察に相当する検査は、国によって地域によって恣意的かつばらばらな状況であることから、比較論も意味をなさない。いま必要なのは、認識⇒行動の制御⇒事実(望ましい未来の獲得)という流れをつくることだ。

 各自治体の文字通り自治を尊重することは民主主義の基本ではあるが、それぞれ認識や目論見が事なる複数の当事者に委ねていては事態は収束に向かわない。国による英断もさることながら、私たち個人個人がギャンブルではない確実な認識の下、行動を制御することに尽きる。