北村 禎宏

2020 10 Apr

冗長性の功罪

 冗長性には善玉と悪玉がある。ハンドルには遊びが必要だという場合の冗長さは善玉を指す。かつて悪玉とされて失ってしまった冗長性がここにきて負の効用として効いてきた。

 およそ20年前に300か所におよぶ保健所が統廃合されたことは多くの人々の記憶にすら残っていない。しかも初動のやりとりでFAXが必須と言われると、ここは昭和か?と驚かざるを得ない。後付けで様々なアプリが開発されているが、それは冗長性の権化ともいえるインターネット網というインフラがあってのアプリの活用だといえる。

 正社員も悪玉の冗長性として徹底的にスリム化されてきた。需給のバッファーとして非正規社員が激増したところに今回の感染症が直撃した。企業からみると、こういうときのための非正規社員の存在意義ということになろうが、当の働き手からするとたまったものではない。

 経済的先進国であり国民皆保険を世界に誇る我が国も、ICUの数はドイツにははるかに及ばず10万人あたり5床しかないという数字にも驚かされる。国民2万人につき一人しかICUに入れないとなると、感染症の爆発には手も足も出せないインフラ整備状況だ。あれもこれも平時におけるコスト最少化をメジャーにして推進してきた結果が今だ。有事にも備え得るおおらかな遊びとしての冗長さをそぎ落とし過ぎてはならないということか。

 アパレル業界は、この30年ほど、ミクロ的にはサプライチェーンの冗長さを極小化することに邁進してきた。その一方で、マクロ的には一時の三倍ほどにあたる30億点もの商品を市場にまき散らす結果になってしまった。ミクロでそぎ落とした冗長さは悪玉だったが、マクロでやってしまった供給過剰は相当たちの悪いの悪玉だ。何を削って何を余剰しておくか、この判断は極めて重要だ。

 この半年から一年の間に、飲食業、観光業などを筆頭に多くの企業や事業者が廃業に追い込まれることは避けられない。アパレル業界やブランドもその例外ではない。悪玉の冗長さが淘汰されるのは致し方ないとしても、このどさくさで善玉の冗長さまで失ってしまっては次なる危機に対する備えが危ぶまれることになる。

 刻々と台風シーズンが近づいてくる。地震は季節を選ばない。避難所を開設しなければならない事態が重なって起こった時、果たして社会は対応できるのだろうか。個人個人でできるだけの備えが必要であろう。