北村 禎宏

2018 31 Oct

ホモ・デウスその1

 ユヴァル・ノア・ハラリ。42年の時間の中で、どれほどの分野の文献を網羅的に読破して、「私たちは誰?」という根源的問いを深く思索し続けて、そしてこのような仮説に至ったのか。その知力の繊細さと深淵さは6σをはるかに凌ぐ超巨大知識人だ。帰納の横綱がトマ・ピケティだとしたらハラリは演繹の大横綱として21世紀の記憶にその名を刻むであろう。

 永らく私たち人類の大敵は「飢饉」「感染症」そして「戦争」の三大天敵だった。戦争は厳密に言うと天敵ではなく人間同士による暴力すなわち人敵だ。ジャングルの法則に支配された国際関係は終焉しつつある。戦争のありようとルールが変わってしまったことは新種のリスクとして私たちにストレスをかけてくるものの、規模的リスクは交通事故のそれをはるかに下回るレベルになった。

 21世紀の人類の挑戦は「不死」「至福」そして「神聖」へと向かう。農業革命が有神論の宗教を生み出し、科学革命は人間至上主義の宗教を誕生させ、その中で人間は神に取って代わったという歴史観はすっと腹落ちするとともに、神に取って代わってそれでいいの?どうするの?どこへ行くの?という議論に真摯に取り組む必要を強く感じた。

 人間にとっての意識の考察にも唸るところがある。脳で起こることと心で起こることは同じか異なるか。となると心はどこにあって、心の産物であるところの意識とは
何であるか?魂の存在を信じる人々はほとんどいなくなった現代においても、心の存在を否定する人々はまずいない。ところがその心のメカニズムは未だ科学に絡め取られてはいない。感覚や欲求はどこからやってきて、どこまで突き抜けるのか?

 「客観的現実」と「主観的現実」に加えて第三の「共同主観的レベル」があり、それが巨大な社会を支える源泉として機能しているという。つまり、創り出された夢と虚構が支配する世界というわけだ。さらにグーグルやアップルが世界中を席巻している現実も同じ原理だと看破する。そうすると150人を越える規模の企業は、全て夢と虚構という共同主観を構築しない限り繁栄も存続もしえないことになる。150人とは人間が個人的に親密になれる生物学的限界量だ。

 今夜、渋谷の交差点はまさに夢と虚構が支配する修羅場と化す。私たちを突き動かしている原動力を正しく理解して的確に制御することを怠っては社会の維持はままならない。せっかく書字を獲得することで脳の限界を超越して繁栄することに成功したにもかかわらず、書字が異なる夢と虚構をでっち上げて私たちを破壊してしまっては元も子もない。

 社会は一直線に進化の一途を辿ってきたということもできようが、それを構成する個人はむしろ退化というパラドクスに陥ってしまっているのではないか。一万年前の狩猟採取民族と比較して一家を確実に食わせていく能力は退化ている。賃金を得て店で食糧を買うことはできるが、虚構の代表選手であるカネを介さないで
みずから食糧を確保する能力は私たちにもはやない。

 自然選択のメカニズムも急速に変化しつつある。これまでは生きられなかった人々が生きられる社会は福祉という意味では望ましい限りだが、それがこれまでの生物界の秩序とは異なる新しい系樹に突入しつつある認識は乏しい。サピエンスにとって代わる新種への道程にあることは信ずるに値するが、その変化は私たちひとりひとりが有する限られた時間と比較すると気の遠くなるような長い道のりなので、誰も本気で取り上げるに値するとは考えない。

 神に取って代わりつつある人類といえる一方、やはり上には上がいて…というオチが待っていると考えたくもなる。かつてドリフの定番コントのひとつだった「ワシが神様じゃ」という掛け合いは、まさに先見の明があった歴史的ギャグだったのではないか。いつもの三倍くらいの時間をかけてようやく上巻が終了。もう一度上巻を読み直して下巻に突入するつもりなので、続きはもう暫く後に。