北村 禎宏

2020 20 Apr

強制と任意

 日本国憲法を盾に国家が強権を発動することに大きな怖れと拒否感を示す向きの言動が少なくない。戦前戦中と暴走してしまったおよそ理解することができにくい日本という野蛮な国を制御するため、GHQは日本国憲法に国家が強権を発動し得る条項を盛り込まなかった。

 法による規制もさることながら、私たち国民には当時の記憶と記録がトラウマとなって大きく影響しているものと考えられる。国家が私権を制限し得る、いわば悪魔が再降臨することには極めて敏感になってしまっている。そこには善玉悪玉の区別もされることなく皆が一様に忌避しているようにも思える。

 大阪府の呼びかけにたいして雨合羽が瞬く間に10万着以上届けられた。窓口に持参した市民が嬉々として語る表情が印象的だった。前の戦時においては、社寺仏閣の銅や家庭の鍋窯が強制的に徴収された。それどころか人命さえもたった五銭で召し上げられた。各当事者は鬼気迫る態度で表向きは積極的に応じていたと聞く。直接体験がない人々も、深く心に刺さっている悪しき強権の悪夢となっているであろいうことは容易に想像できる。

 任意と強制はかくも真反対の様相を示すが、要請となると中途半端で扱いに苦慮する。強制力のない要請に、多くの大企業や小規模零細の飲食業者が真面目に対応している一方、中小の現場や不届きな一部の人々はおかまいなしで活動を続けている。これ幸いと犯罪行為に走る輩も少なくない。彼らにとっては今回の禍は格好の飯のタネになるということだ。

 そんな時勢において、多くの企業や事業者、そして個々人が強制力によるものではなく自らの判断で数字や利己ではなく社会を守るために勇気ある決断と行動を実践している。国をまたぐ政治家同士もかかる心境で新しい地球のありようを切り拓いてくれるとよいのだが。