北村 禎宏

2018 02 Dec

家と屋の違い

家(か)と屋(や)の違いは古くから認識もされ議論されてきたようだ。

 勝海舟は氷川清話の中で「職業としての政治屋と役人」の小見出しをつけて言及している。財政や外交において自分の主張すなわち抱負を実現させるために邁進するのが政党員の本分であるはずが、役人にでもならなければ食えないので猟官に走るのももっともだという論調だ。

 マックス・ウェーバーがのちに「職業としての政治」としてまとめられる講演を行ったのは勝の談話のおよそ20年後のことだ。勝の先見の明というか、世界レベルでの最先端の普遍的洞察力には恐れ入る。

 企業にも人事家と人事屋がいて、後者には要注意という議論を盛んに繰り広げたのは20年ほど前に人事企画機能を預かっていた頃のことだ。当然それは経営家と経営屋と読み替えることもできる。ウェーバーは“政治によって生きる”と“政治のために生きる”と区分した。

 人事や経営によって禄を食むのか、それぞれの分野における理念型(あるべき姿)に向かって純粋に突き進むのか、ステークホルダーである従業員にとっては大きな違いで、屋に取り囲まれてしまっては大迷惑この上ないことになる。

 役人に聞く耳を持ってもらえず、政治屋にスルーされた皇室の思いのほどはいかばかりであろうか。機関として象徴に過ぎないので、政治的発言は好ましくないとのポリティカル領域でのアカデミックな議論はもちろん正論だ。しかしながら、納税者たる国民に対する人としての思いやりが「身の丈に応じた」という表現に表れているとしたら、ヒューマン・エシックスとしては皇室の態度、考えに軍配が上がる。

 現在の総理、副総理は政治などやらなくても食うに困らないという点では政治家の要件のひとつを満たしてはいる。ただ、目先の短期的経済的辻褄あわせをもてあそんでいては、20年後、30年後の次なる世代に大きなツケを残してしまうことになりかねない。

 大いなる抱負をもつこと。食うために当該職業に携わっているのか、その職を全うして結果的に飯が食えているのか、胸に手をあててよくよく自問自答すべき問題だ。それにしても、勝海舟も西郷隆盛も大きかった。