北村 禎宏
問われる知的労働生産性
働き方改革が単なる時短として一人歩きしている。本来的には単位時間当たりの労働生産性を向上させる因が先で、果として同じ成果をアウトプットするための
リソースが節約でき、そのリソースの大半が時間であった場合に限り、最終的な果実として時間が創出されるメカニズムのはずだ。
多くの企業が生産性の向上に関心を示すとともに、当該テーマでの教育研修に前向きに取り組んでいる。
90年代初頭に繊維ビジョンで通産省から「合理的経済構造という観点から、最後に残された暗黒大陸」と揶揄された繊維業界は、四半世紀におよぶイノベーションの結果、SPAという新業態を手に入れることに成功した。ただし、それは川中のアパレルから川下の小売店頭までに限られているケースが大半で、川上まで完全に統合されている事例は世界レベルの一部のファストファッションに見られるだけだ。商品および売場の同質化に消費者がそっぽを向いたカウンターパンチはあぱりに強烈で、いまだにダウンから立ち上がれないアパレルが少なくない。
いま私たちが直面しているのは知的労働生産性という暗黒大陸だ。その中でもとりわけ会議という魔物はブラックボックスと言っても過言ではない。製造ラインの生産性に関しては、品質、コストの両面で世界のトップクラスにあるわが国の、知的労働に携わるビジネスパーソンの生産性たるや惨憺たるレベルだと言わざるを得ない。
3σ(およそ0.14%つまり1000人にひとり強程度の存在確率)のスーパーエリートや知識人はこの限りではないが、その数では企業のマネジメントポスト全てを到底埋めることはできない。2σ(およそ25人にひとり)でも課長以上のポストが埋まるかどうかだ。そこで、現役のマネジメント層に知的労働の生産性を向上させるための考え方とやり方を促成でインストールする必要性が急上昇しているというわけだ。
ただし、知的労働生産性ばかりは測定困難性の極みにある分野だ。それゆえの逃避的回避策が裁量労働というオチになる。私に言わせれば、その正体は「アウトプットを客観的に測定し評価することが現実的には不可能に近いことから、いっそのこと主たるインプット(分母)である労働時間をみなしで固定化してしまえば、企業側は社員のアウトプット(分子)の不可視性や不確実性のリスクから少しでも距離を置くことができるというブラックな発想に過ぎない。
該当する非定型かつ創造的な職種の全員が個人事業主になって社内で売上を計上する仕組みにしない限り、この問題の抜本的解決にはならない。チーム単位ではあるが、アメーバ経営が近似解を提示してくれてはいる。
それを個人ベースまで落とし込む覚悟と意志がある人々はスピンアウトして、
自らのリスクで生産性のアップに挑戦し続けている。結果、そのような環境で奮闘している自分の労働実態を省みたときに、まさに裁量労働をやっていると実感する。時間という分母のリソースを一日、一週間、一ヶ月、一年でどのような割り振りで何に使うかは自分次第だ。だれからもとやかく言われない代わりに、誰からも助けられることもない。
成果の鏡である売上が滅したら、それが自分のビジネスキャリアを閉じるときになる。あとどれくらいかなぁ…と思いを馳せる。