北村 禎宏

2018 08 Jan

今年の開け

 年明け早々喉の調子が芳しくなく、新年会を二件お断りするというスタートになってしまった。14期目に突入した今のビジネスで喉を痛めたのは今回が二度目になるが、幸いデリバリーをキャンセルしたり延期する大事には至ることなくなんとかやってきた。

 昨年を振り返ると6月までが比較的暇で、7月以降その反動からかスケジュールが超過密になってしまい、何がトレードオフされたかたというと運動する機会と時間であった。一定のペースでウェイトトレーニングとスイミングとゴルフは継続していたが、その密度が半分以下になってしまったのだ。

 当然体力は低下し、それは気力にも影響を及ぼす。1月2月4月は過密な日程が予見されるが、正月早々の風邪気味を明らかなシグナルと捉えて、
体力の増強と温存にはくれぐれも気を付けたいというのが個人的年初のメッセージとなった18年の開けであった。

 周囲を見渡すと会社のあり方やそこにおける個人のあり方が大きく変化する兆候を示唆する事象や報道が目につく。マクロ的に変化を後押ししているのは「コミュニティ」の変動である。

 まずはもっとも大きな社会というコミュニティの変化を捉えてみることにする。多くは與那覇潤氏の“中国化する日本”に依っている。もともと日本は世襲の農業世帯が支える地域社会の結束力が高く、規制緩和や自由競争による社会の流動化を地域の疲弊として批判する声が絶えない社会的流動性が低い世界だった。いまやその地域社会は崩壊し、規制緩和と自由競争は加速し、もはやそれを批判する声は聞こえてこない。

 人間関係に目を向けると、ある時点で同じイエである会社に所属していることが、他の地域に残してきた実家や親戚や地域そのものに対する帰属意識より優先され、同じ会社の社員であるという意識が他のいかなる繋がりよりも優ってきたのが日本の歴史だ。崩壊に瀕した地域を再生する機運が盛り上がり、そこに身を投じる人々も年齢や職種を問わず出てくるようになった。ただし無差別で再生する盲目的着手はあり得べくもなく、再生すべき地域とその内容は取捨選択、吟味されるべきであることは言うまでもないし、95年以降萌芽し11年以降形を整えつつあるボランティアもその動きの一部だと考えることもできる。

 さんざんリストラクチャリングの辛酸を舐めさせられて、これだけ雇用形態が多様化してしまうと、もはや同じイエという感覚は多くのサラリーパーソンに皆無の概念であろう。そして職種ではなく“趣嗜種”(趣味や嗜好の種類を表す私の造語)の繋がりがSNSを通じて爆発的に増殖したので、そこに新たなコミュニティがあっという間に形成された。しかもそれは物理的にも制度的にも一切排他されることはなくネットワーク型で共存可能なハイパーテキスト構造型コミュニティなのだ。

 そうなると、毎週決まった曜日と時間に決まった会社の決まった場所で働くことなど、そういえばその昔お祖父さんの時代はそうだったらしいねという昔話、思い出話になりつつある、初動の時期がまさに今なのであり、今年がその象徴的な一年になるのだろう。

 主体となる単位は、「社会」「地域」「会社」「家族」そして「個人」。社会に国際社会や国や地域や南北などを加味するともっと主語となり得る対象は増えることになる。それらコミュニティの単位が放縦と回帰(TimeとCycle)を縦横で展開しながら絶対時間と相対時間が流れていく。その大きな縁(えにし)の下、2018年も様々な事象が繰り広げられていくのだろう。