上野 君子
東京ならではの文化活動
都心に出るのは平均して週1回。
取材や大切な仕事なら1か所でも馳せ参じるが、どうしても行かなくてはならないというわけでもないイベントならパスしてしまうというふうに腰が重くなっている。往復の交通費も時間もかかるので、つい天秤にかけてしまうのだ。
そんな時は、東京でしか観られないような映画や美術展をプラスするようにして、なまけがちな自分自身をあおっている。
そんなわけで、数日前は話題の「クリムト展」を観に、上野の東京都美術館に足をのばした(ここは「ムンク展」以来)。連日大混雑といううわさを聞いていたものの、海外出張で日本を離れる前に行っておきたいと閉幕間近に駆け込んだというわけだ。
雨の降りそうな空模様と夕方近い時間帯ということもあって、「待ち時間10分」の行列は意外にもスムースに進んだ。館内はそれなりに混んではいたが、「並ばずに左右自由に見てください」という美術館スタッフの声掛けも好感が持てた。
「クリムト」といえば、オーストリアのベルヴェデーレ美術館で対面したのは、もう25年昔になるだろうか。きっと代表作はいくつかそこで観ているのだろうが、何を観たのか覚えていない。
昨年は、パリに新しくできた「アトリエ・デ・ルミエール」の特別展として、コンピュータによる没入型デジタル環境で、空間いっぱいにクリムトの作品を身に浴びた。
華やかな装飾性と色の美しさ、印象的な女性の表情につつまれて、不思議な時間を過ごした。
癌で亡くなった音楽家の友人がクリムトを好きだったことをいつも思い出すのだが、今回、「ベートーヴェン・フリーズ」の作品(複製)を観て、クリムトは確かに音楽的な要素があるのかもしれないと思った。それ以前に、ウィーンと音楽は密接な関係がある。先のパリ展でも、音楽と共に刻々と映像が移り変わっていく様が自然に受け入れられた。
また、今回は日本とのかかわりをクローズアップしているのも興味深かった。
美術展というのはそれぞれの視点によって多様な切り口があるし、その時々の時代性というのもかかわってくる。
クリムトの没後100年を記念した今回の大回顧展。世紀末という時代を背景にした数奇な一生(といっても60歳前に亡くなっている)と共に、一人の天才画家が苦しみながらも、膨大な時間をかけてそのスタイルをこつこつと完成させていく過程を展覧会で追うことができるのは幸せな体験だと思った。