上野 君子

2019 27 Nov

百合の花に力づけられる

百合の花というと、郊外での暮らしを初めてから、毎年、夏のお盆頃、あちらにもこちらにも、にょきっと現れる野生のイメージが強くなった。

彼岸花や水仙と同じような咲き方をするが、百合は丈があるので、まるで人がたたずんでいるような存在感がある。

我が家のベランダの植木鉢にも、鳥が運んできた種からか、突然、百合が咲いて、驚いたことがある。

 

父が亡くなって5回目の命日。元気のいい百合を花屋で見つけたので、久しぶりに床の間に生けてみた。

1週間経った今は、下の写真のような感じ。つぼみのある時の風情もいいが、満開もいい。今日のような鬱々とした寒い日には、何かエネルギーをくれるようだ。

 

昨日、東京ドームにおけるローマ教皇のミサでは、マタイ伝6章(28-30)の以下のところが読まれた。この「野の花」は文語では「野の百合」である。

 

また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。

しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。

きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。