久保 雅裕
理性と愛欲の相克
©Lucía Films S. de R.L de C.V. 2017
人間には愛と欲望がある。愛するという行動と欲を満たすという行動は、表裏一体だ。誰かに何か施す時、それは表層的には献身的な愛に見えても、本当は自己欲求を満たしているのかもしれない。あるいは潜在的過ぎて本人は気付いていない場合もあるかもしれない。それ位、表裏一体の関係、若しくは混然一体としたものなのかもしれない。そして、それらの感情をコントロールするのが理性という機能だとしたら、人生とは、理性と愛欲を含む感性との挟間で悶え悩み苦しむことの繰り返し作業なのかもしれない。
本作『母という名の女』はタイトル通り、母と女の挟間で自分を律し切れない、ある種の危機を抱えた女性の人生のひとコマを切り取った映画といえる。
メキシコのリゾート地、パジャルタの海沿いの別荘に2人で暮らす姉妹。自由奔放な性格の17歳の妹、バレリアは妊娠している。姉のクララは内気で、やや太っていることにコンプレックスを抱きながら、印刷所を経営して家計を支えていた。クララは、離婚してスペインで暮らしている母親、アブリルとしばしば電話で話すが、妹のバレリアは母親不信。だが、妊娠に不安を抱えるバレリアの為に、クララは、アブリルを呼び寄せる。お腹の子供の父親は、クララが経営する印刷所でアルバイトをしていた17歳の少年、マテオ。姉妹のもとに現れた母、アブリルは、クララやマテオと会話を重ね、バレリアの不安を和らげるように接し、母親に不信感を抱いていたバレリアも徐々に母を信用し、そして無事に女の子が生まれ、カレンと名付けられる。ここまでは、アブリルの家族愛が素直に表現される。
しかしバレリアの代わりにカレンの世話をしているうちに独占欲がアブリルの中に芽生えはじめる。カレンを自分の管理下に置こうとするアブリルに反発しはじめるバレリア。娘との関係が悪化していく中、アブリルはバレリアを育児困難と判断し、養子縁組を企てる。そして独占欲から新たな欲望、愛欲、性欲へと昇華していく姿は『母という名の女』に相応しいといえる。最後に現れるのは自己愛なのか。そんなラストシーンでは、バレリアの母性愛が際立つ。そして愛のためには、また新たな犠牲が生まれるというのも常なのかもしれない。やがて理性は、時とともに立ち戻り、人生に深みと悔いを残して、しばらくは静かに心に佇むのだろう。冷静と情熱の間の揺り戻しが、新たな価値観を生み出す作業にも繋がる。そんなところにヒントが落ちていないかと思いながら、試写会をあとにした。
6月16日よりユーロスペースほか全国ロードショー。