船橋 芳信
ヴァカンス紀行








アンドレア・パラディオ テアトル・オリンピコ
7月14日、15日と車で、ヴェネツィア、ヴェローナ、ヴィツェンツァ、ドロミテと駆け抜けた。
ミラノから車で2時間半、ヴェネツィアの手前、メストレの駅前駐車場に車を捨て、電車でヴェネツィアまで行く。
車でヴェネツィアまで行くと、駐車料金、混雑でうんざりする。メストレから電車で15分、海に突き出た鉄橋を走る電車は、
終着駅、サンタルチア駅に着く。
ホームから駅の外に出ると、かナーレグランデが迎えるヴェネツィアは、別世界である。
人混みと喧噪にまみれながらも、晴天に恵まれたヴェネツィアは、
見たことも無い異国との接触に感動さえ覚えてしまう。運河は行き交うバポレットで混雑し、波立っている。
一日バポレット券、24ユーロを払い、サンマルコ広場まで船に揺られて辿り着く。
広場は観光客で埋め尽くされ、サンマルコ寺院への入院は、長蛇の列、
片道一時間半かかるブラーノ島、ムラーノ島を諦め、トラットリア・カランパーナで遅い昼食を取った。
メニューは、烏賊のフライ、エビのグリル、
イカスミのスパゲッティ、まあまあの料理だったが、次は来ないな!と思った。
サンタマリア駅まで歩いて、メストレまで戻ると、一路、ヴェローナへ、夜のアイーダ野外劇場鑑賞、切符は無い。
いきなり切符売り場へ行って、交渉だ。運良く一番上の席、安い切符が手に入った。開演までの2時間、
軽い夕食をいつものレストランで取った。
グワンチェロのアマローネのパスタは最高だった。
ウェイトレスに今晩の宿が無い!情報は持ってないか?と聴くとB&Bの知人を紹介してくれた。
早速、電話、アイーダ終演後、一時半に、ホテルに入れるかと尋ねると、
それは無理だ、今直ぐ鍵は取りに来い、それなら部屋はかせると!
ヴェローナ郊外に車を走らせ、鍵を貰って、アレーナに戻ると、残念ながら、既にアイーダは始まっていた。
最初のテナーのアリア、CERESTE AIDA!は聴きそびれてしまった。
しかし満席のアレーナ、暑い夏の夜に輝くアイーダの舞台は、豪華絢爛にオペラは進む。
アレーナ、野外劇場とは言え、感動してしまう。3幕目に入って、雨がぽつり、ぽつり、と、、、
オケピットの楽団員達は、楽器を大切にかかえて、脱兎の如く消えて行く。
オペラは俄雨のため、やむなく中断、アイーダはこれからが見せ場だったのに、残念ながら
我々は、諦めて戻ることにした。多くの人が、劇場をあとにした。
部屋は快適だった。次の日は、早朝早くドロミテへの予定を立てていたが、
睡眠不足で、ヴィツェンツァのANDREA PALLADIO の建築群を
見学することに予定を変更した。ヴェローナから40分アンドレア・パラーディオの街、
ヴィツェンツァは、その昔ヴェネツィアの建築に負けぬようにと
競って立派な建物を造ったそうである。折しも1585年、天正の少年使節一行がこのヴィツェンツァを訪れた。
そしてアンドレア・パラーディオのテアトロ・オリンピコの落成記念パーティ−にこの天正の少年使節達が参列したのである。
テアトロ・オリンピコの入り口の壁に、日本人の4人が椅子に座って参列した様子が、石版画になって残されている。
歴史は、刻まれることで、400年の時の流れに流される事無く、留まり其の存在を主張する。
先日、ティントレットの息子、ドメニコティントレットに依る、伊東マンショの油彩肖像画が発見された。
ヴェネツィア政府は、ドメニコティントレットに4人分の肖像画の報酬を支払ったとの書類が発見されている。
残りの3人の肖像画も何処かの屋敷の倉庫に、眠っているのに違いない。
長崎を出帆して、2年半をかけて辿り着いたイタリアでの彼らの足跡は、至る所に残されている。
テアトロ・オリンピコに残されたジャポネーセの文字は、遠い遠い時間の流れの奥にまで我々の意識を旅立たせて止まない。