船橋 芳信

2019 18 Aug

Luigi Sunのお葬式!

8月9日、ルイジ・スンが、すい臓がんで亡くなった。

享年62歳だった。
 1988年、何月だったか覚えていない。
ヴェニスに住むチェスキーナ・永江洋子夫人にポルタ・ヴェネツィアの中華レストラン、ムライア「長城」の経営者として紹介された。
ミラノに中華レストランが20軒あるか無いかと言う頃である。
ルイジは、アジアの食品を取り扱い、成功した人物の一人として、
中国人社会で、知らない人はいなかった。
 イタリアでアジアの、特に日本食、日本レストランの流行に、
ビジネスとして取りかかり、当初3軒しかなかった日本レストランが、現在ではミラノに500軒と言われている。
その下地を作り出したのが、ルイジである。
 1990年初頭、ルイジが、日本レストランを経営しないかと
私に持ち掛けてきた。彼はその当時、中華レストランの経営、
食品販売のビジネスに取り掛かり始めていた。
 その頃、ローマ在住の弟夫婦が、Come Va!という日本語新聞を作成発行していた。(げんざいはCiao!)
中国人社会にも、同じような中国新聞を作りたいと、
ルイジは申し出た。ミラノに於いて、日本人社会、中国人社会、
韓国人社会、フィリッピン人社会、と国別の社会が、存在しつつ、其々が分散しつつイタリア人社会との狭間で、
意識的に垣根を作って、ミラノで共存していた。
 そんな状況の中で、アジアを原産とする食品には、
共通の嗜好を持ち、私自身も、醤油、豆腐や大根、
美味しそうなお米など、買い求めていたのである。
そんな状況の中、ルイジのアジアスーパー、カタイには、
良く出掛けていた。
  「日本の食材の売り上げが、日増しに強くなっている。
yoshi、寿司屋をやらないか?」と私に持ち掛けてきた。
 日本食、日本料理の難しさを理解している身に、
簡単には返事は出来ない。いや、まず無理な話だと、断った。
それから1年後ルイジは、禅という日本レストランを開店、
大成功して、チェーン店を設けた。
そうこうしているうちに、ミラノに日本食のブームが起こり、
雨後の筍、中華料理屋が軒並み日本料理屋へと鞍替えしていった。
現在ミラノに日本料理屋は、500軒と言われている。
ルイジは、その状況を見て、禅、および日本レストランを閉店し、
リナーテ空港裏に、千平方の倉庫を作り、食品輸入業者へと
ビジネスを転換していった。自ら日本レストランを経営する意味を、彼は問うた。それより、これらの日本食レストランへの食材を販売することにビジネス動機を見出したのだ。
今では一万点に及ぶ 食品カタログを、手に、
イタリアの日本レストランへ食材を降ろしている。
イタリア、ミラノの食の変遷の、裏の立役者とも言える一人だった。
ルイジのビジネス才覚は、時の流れとマッチして、
見事な成功を収めた。
 8月のバカンスが始まったばかりの、人の気の薄いミラノで、
お葬式は執り行われた。
それでも沢山の人に囲まれたお葬式だった。
 合掌!