船橋 芳信

2019 30 Jul

職人仲間のフランコが、、、

職人仲間の、、、

7月1日、職人仲間のFrancoが亡くなった。長年、腎臓がんを患っていたが、闘病しつつ、
アトリエに来ては、仕事のフォローをしてくれていた。小学校の入学時から、学校が終わると、
近くの洋服仕立て屋に掃除や使い走りをしながら、服の仕立て見習いになったそうだ。
 カラブリアのパルミ出身のフランコには、5人兄弟と2人の姉妹がいた。
父親は、家具職人で頑固一徹の家具職人だった。其の父親は、肺の疾患で亡くなった。
跡を継いだ、長兄は数年前にやはり肺がんで、亡くなった。木屑の埃の吸い過ぎに依る、
職業病である。
 フランコは、中学を終わるとローマのサルト(手縫いの洋服屋、オーダーメイド)に働きに出た。
1950年当時は、イタリアは戦後の活況に満ち、不足した生活物資の供給の為の生産活動が、
街にエネルギーあふれる騒音を撒き散らしていた頃である。
 第二次世界大戦の悪役の一端を担いだイタリアファシズムが崩壊し、アメリカ一辺倒となったイタリアには
ファッション産業界の基地とも呼べる工場が誘致され、ファッションは嫌が応にもイタリアを席巻していた。
 そうした状況の中で、南イタリアからは多くの洋服見習いの職人たちが、ローマ、ミラノを目指して集まっていた。
 手縫いを基本にしたオーダーメイドの服作りは、複雑な手仕事、複雑な芯地服地資材の仕様法、仮縫い、修正、
本仕上げと、約2ヶ月の時間を要する。其の仕事に就いたフランコは、やがて、既製服業界へと流れて行く。
 既製服ならば其の市場性豊かなミラノへと、ミラノに移住する。
1960年代には、ダブルフェイスと言う特殊な生地が、流行していた。
 ミラ・ション、バレンティーノ・ガラヴァーニは、ハンドソーイングテクニックを使用した多くの
ダブルフェイスファッションを生み出している。
 パリのオートクチュール、ピエール・カルダン、クリスティアン・ディオール、等も沢山の 
ダブルフェイスファッションを作り出している。
フランコは、ミラノのこうした小さなアトリエで、ダブルフェイスの専門職人として、活動を続けた。
 ミラノには30店舗以上のこうした小さなダブルフェイスの工場が在った。
現在我々を含む、数店舗、恐らく2、3店を残すのみである。
工場が無くなると言う事の意味は、其処に培った全ての生産価値たる技術の喪失である。
 7月4日、ロッツァーのサンタンジェロ教会で、9時半から葬儀が執り行われた。
沢山の友人、仕事仲間、家族に見送られて、洋服作りの人生を終えた。
 
「Franco, Rocco Cosentino」は、「スミズーラ」用尺寸法を測り、服を設計し、
作り上げる仕事にその人生を、捧げた。人の服を設計、作り上げると言う事は、
人の人生を設計し、作り上げると言う行為に等しい、価値ある人生を服作りに捧げたのである。
 葬儀を執り行った牧師の言葉が、心に残った。
                     哀悼