船橋 芳信
2019
28
Nov
大野順之助先生

大野順之助先生
1931年1月26日 大連生
終戦前、父親の転勤で北朝鮮へ
終戦時を、北朝鮮で、混乱に巻き込まれ、戦争避難民を経て帰国
1957年アメリカ、ニューヨークへ
1960年夏、一時帰国
1965年鯨岡阿美子先生との
プロジェクトに抜擢され、当時ニューヨークプラットアーツ大学教授
アミコファッションのパターン専任教授として、
東京ニューヨークを行き来しつつ、アメリカの立体裁断、工業パターン、パターンメイキングの考え方を、
日本のアパレル産業に指導し、パターンナー育成に力を注いだ。
アメリカの服飾業界のシステムおよびパターンメイキングの教育の実践において、
日本のアパレル創成期に業界が受けた恩恵は、トルソー、人台の開発、三菱との共同開発アミカ人台、
トーレとの共同開発ドレスフォームなど、工業パターンへの思考方法、そのシステム、キャド開発、
コンピューターによるパターンメーキングなど、デザインソフト部門を支える立体的パターン実技など、
多くのファッションメーカーの品質向上と、ファッションに於ける市場拡大、経済的波及効果など、
ファッション業界に与えた影響は、計り知れない。
計り知れない業績を抱えられながら、未だに現役、パターンの教育にその人生を育まれている。
洋服業界の歴史の中の、物作りの核を為すの重要なパターンナー育成に、
其の半生を捧げられている大野順之助先生と、会食した。
弟、幸彦のサルトリアイプシロンでの、仮縫い中、矍鑠とした先生は、袖付けの不備、
着心地の善し悪しを、指示されている。
前もって、お願いしていた夕食の約束を、二つ返事でお返事を戴いた。
借り縫いが終わると、大野先生が運転する白いベントレーの後部座席に乗り、
日本橋から、恵比寿のウィストンホテルの、中華、龍天門へと向かった。
すっかり暗くなった東京の街並は、行き交う車のライトの夥しさに、
ビルの谷間を流れる車道から見上げるビルの窓明かりが、眩しく映り去って行く。
先生は愛車、ベントレーを時折噴かしながら、軽妙に運転されている。
後部座席に座する視点から覗く東京の街並は、未来映画の都市の映像、ブレードランナーとオーバーラップし、
恵比寿に着くと、ベントレーは、ウィンストンホテルの地下駐車場へと、アップダウンしつつ、
猛スピードで、無機質なコンクリートのトンネル空間を下って行った。
駐車場にべントレーを停めた。
先生は一服と、2〜3服、煙を吸い込み、
「さあ!行きましょう!」
エレベーターを下りると、そこは香港の中華料理店にも似たゴージャスな龍天門、
いつもの奥隅の専用テーブルに案内されると、
「いつものやつね!」
「今は上海蟹が旬かな」
「上海蟹の紹興酒漬け」
ピータン入りスープも、上海蟹の紹興酒漬けも、
やや、食べぬくかったメスの上海蟹蒸し、素敵な夕食をご一緒した。
思えば、45年前渋谷の西野ビルで、始めてお会いした大野先生の颯爽としたお姿は、
ニューヨーク在住のデザイナー、大野順之助先生、其の印象は、今尚、変らなく
颯爽として、ハイカラな、88歳現役のパターンナー、益々のご活躍を期待する。