船橋 芳信

2019 17 May

音楽と私

私と音楽

何故か、時にしてショパンのノクターンを聴きたくなる。
それも死後、発見されたと言う、ノクターン、嬰ハ短調20番、
音楽の友人に良いピアニストの演奏はないかと尋ねた。
3日後、アレクシス・ワイセンベルクのノクターン、2枚のCDが
送られてきた。ワイセンベルクの名前は知っていたが、
彼の演奏に触れるのは、始めてだった。
 ユダヤ人としての苦しく厳しい生活を強いられた少年時代、ワイセンベルクは、
収容所での死との恐怖とも、覆わされ、叔父からプレゼントされたアコーディオンを弾き、
ドイツ人の看守がいたく感動し、ワイセンベルクの家族の逃亡を手助けした。
音楽を奏でる事で逃げ延びた経験を持つワイセンベルクの、其の経験と彼の音楽性とは、
何ら関連性を説明出来る証拠も言葉も説明も出来ない。
唯、其の音楽表現に聴く側が、感じ取るだけのコミュニケーションが存在するだけである。
 ショパンの20番は、研ぎ澄まされた神経、感覚だけが存在する恐怖に、
支配された人間の極限状況の中で、知性と出会う一条の光の存在を感じてしまう。
導入は、何かを前にして其の何かが、大きく立ちはだかり、お前はどうする!と
問いかけてくる。
 ショパンのノクターンは、感情への琴線に共鳴し、感傷的であったり
悲しみであったり、其の悲しみの中での時間は経過し、時は過ぎ去って、
又存在し、やって来る今、今の日常と対峙する。
 そんな時の風景に身を置かされた時、人は思考する。
思考しても、答えは出ない。
そんな思考の果てに、人間は意志と出会う。
ショパンのピアノ曲には、叙情さの中に、強い意志の光を感じる。