船橋 芳信

2019 27 May

ルキノ・ヴィスコンティの事!

 ルキノ・ヴィスコンティ、映画監督、舞台監督、其の人となりは、

20世紀初頭のイタリア貴族のデカダンスの象徴、其の人生は、育った環境、生活、
教養、其の全てを語ると繪となり、本となり、伝説となった。
 マリア・カラスとの「椿姫」スカラ座での公演は、以後30年、
ビスコンティ、カラスの名演に、其の比較を嫌がられてか、演目には上がらなかった。
リカルド・ムーティが、この椿姫を初演に持ってきたのが1992年、
主役に新人ファブリッツィ−ナを抜擢し、演出家にリリアーナ・カバーニを起用した。
 天井桟敷からのブーイングを恐れたマエストロ・ムーティーは、天井桟敷の
立ち見席を売らないことにし、天井桟敷の人達をボイコットまでしました。
 さてさて、怒りに怒った天井桟敷の人々は、プラカードにブーイングの笛を鳴らし
スカラ座を取り巻き、スカラ座の葬式と騒ぎまくりました。
 結局、天井桟敷の切符を売り出し、見事にティッツィアーナ・ファブリッツィーナは、
ブーイングの洗礼を受けたとのでした。
 
ビスコンティは、若い頃巴里へ遊学する。其処でココ・シャネルの紹介で、
映画監督のジャン・ルノワール(印象派画家オーギュスト・ルノワールの次男)
と知己を得、助監督として映画の世界へと導かれる。
パリ時代、親友のココ・シャネルとの親交は生涯に渡ります。
 ヴィスコンティ家の傍流、モドローネ公爵の長男として、
14世紀に建てられた城に育ち、芸術の薫風を身に纏い成長する。
ルキノ・ヴィスコンティは、耽美的な表現、演出に富み、
映画と言うジャンルに、人生の意味を刻印し続けた。
私の愛するヴィスコンティの映画に、「IL GATTOPARDO,山猫」がある。
 イタリア統一戦争の始まる19世紀半ば、シチリアの貴族サリーナ公爵は、
老い行く自分の人生と貴族社会の崩壊を前に新しい時代の息吹を、若き甥、
タンクレディにオーバーラップして時の流れの空しさを覚えてゆく。
パレルモからガリバルディ将軍率いるの赤シャツ党が、イタリア統一を叫んで、
進軍してくる。アラン・ドロン扮する甥のタンクレディは、パレルモ戦線にて、
眼を負傷し、戦列からはなれ、ドンナフーガのサリーナ公爵地へ戻ってくる。
 其処にクラウディア・カルディナーレ扮する、新興ブルジョワジーの娘
アンジェリカが、サリーナ公爵への初御目見えとなるデビュウーの
食事会が行なわれる。サリーナ公爵は、今後の世の中の移り変わりをを考え、
市長となった新興ブルジョワジードン・セダーラの娘、教養も知性も無いが、
目映く程の若さと美貌と財力とを持ったアンジェリカを、タンクレディの
許嫁に抜擢する。。
 甥のタンクレディとアンジェリカのカップルを前に、今の君達を
凌駕出来るものは、何も無い!と サリーナ公爵は二人を祝福する。
シチリアを押さえたガリバルディ党、エマニュエル・ヴィットリオ2世国軍を
迎え壮大なパーティーが執り行われる
山猫の紋章を持ったサリーナ公爵の、時代の、時の流れの中に、
静かにフェイドアウトしながら、ニーノ・ロータの美しくも哀愁に満ちた音楽が、
サリーナ公爵の背中を覆い隠してゆく。
 ルキノ・ヴィスコンティの何が凄いのか、人間の想い、感情、感覚、現実感、
生活感、不安、恐怖、これから来るべきモノに対する覚悟、それらの精神性を、
一分の隙なく、バートランカスター扮するサリーナ公爵をして演じさせて、
表現する。
ネオレアリズムの巨匠、ヴィスコンティの映像には、視点を変えれば様々な
美学的観点の装いを、我々に提示させてくれる。
 表現への方法、思考、感覚は半世紀を経た今、人間を表現すること自体、
既に誰にも興味の対象とはならないのかもしれない。
守るべき存在として在った、過去の時代、スタンダールを始め、多くの文学、
絵画の世界の中で崇められ、慈しまれた女性の群像は、男性を凌駕し
現代に於いての女性の存在は、平等と称されるようになった。
美しく表現される女性崇拝の感覚は消えていっている。
 かくも美しく表現された、アンジェリーカは、過去の男性社会の夢、
幻であったのだろうか?
 映像、GIUSEPPE ROTUNNO 
   衣装、PIERO TOSI
    原作   GIUSEPPE TOMASI DI LAMPEDUSA