船橋 芳信

2019 27 Jun

茶道と天正の少年使節

千々石ミゲルの墓!

十数年前の事である。帰崎の目的の一つである、千々石ミゲルの墓へ行った。
天正の時代は、戦国時代の群雄割拠の争乱から
織田信長による全国統一がほぼ成し遂げんとしていた時代である。
そうした動乱の時代に、キリスト教が多大な利益を生み出す南蛮貿易という
利権と鉄砲という武器と共に日本へ上陸する。その価値をいち早く理解し
利用したのが、織田信長であった。その頃のヨーロッパではキリスト教は、
1517年、マルティン・ルターの宗教革命に依って
旧教(クリスチャン)と新教(プロテスタント)の二つに別れていた。
多くの教徒を失ったクリスチャン側は、新たな教徒獲得の為に、
大航海時代の流れに乗って、アジア、アメリカへと進出して行く。
 イエズス会の牧師達は日本の大名達への宣教、布教を強化して行く。
富国強兵への早道となる南蛮貿易への取り組みには、宣教師との
交流は欠かせないものであった。
 ALESSANDRO VAGLIANOは、イエズス会の日本巡察師として
宣教師達を監視、指導する立場にあった。当時の日本の文化、社会習慣を
観察し布教活動方針を決定して行った。当時の日本文化、日本人の優秀性を
ヨーロッパと比べて、勝るとも劣らない日本人の持つ高い教養を認識していた。
千々石ミゲルは大村純忠の甥、有馬晴信の従兄弟、千々石直員の子息として
肥前の国、(長崎佐賀両県)に生まれる。有馬の(島原)セミナリオで司祭に
なるべくキリスト教を学んでいたところ、容姿端麗、家柄も良く、キリシタン大名の
名代として、少年使節の一人に選ばれる。
 ヴァリアーノは、キリスト教に依って繁栄するヨーロッパを若き日本の少年達に、
直接、見,聞、感じさせ、その体験と認識を日本に戻って語らせることを思いつく。、
日本人に依る日本人への布教の重要性を痛感していた。
 と同時に、ヨーロッパ、とくに法王へ、日本人の優秀さを知らしめ、
日本布教の強化を認識させ、布教援助を引き出させる政治的目的があった。
何故なら、当時既にキリスト教の中の色んな宗派、サントドミンゴ教会、サンフランチェスコ教会、
イエズス会と、各宗派がこぞって衆徒獲得にしのぎを削っていた。
 キリシタン大名として名高い、大村純忠は領民全員をキリスト教徒に改宗させ、
偶像崇拝を、悪魔信仰とするキリスト教の教えに依って、その当時の神社、
仏閣、仏像、残らず廃仏毀釈し、そのすざましい仏教迫害は、領地に一寺さえも
残らなかったという。
 こうしたキリスト教に於ける日本社会との軋轢は、豊臣秀吉のヴァテレン追放令、
ひいてはキリスト教禁令、鎖国へと繋がって行く。
一個人の人生が、西と東の国家間の政治的、宗教的、歴史的な時間の流れに、
押し寄せられ、浮き沈み、右や左に揺れ動かされ、
そしてその人生を、終息させて行った。
 
天正の少年使節の4人の内の一人、千々石ミゲルは帰日後、棄教する。
仏門へ入り結婚して63歳で長崎の何処かで亡くなる。
約10年ほど前、千々石ミゲルの墓らしき墓石が発見される。
 1612年江戸幕府が最初のキリスト教禁止令を発布する。
当初、南蛮貿易で富を得ていたが、増えて行くキリスト教徒は、
70万人にも達していた。
イギリス人ウイリアム、アダムスを外交相談役とする。
彼はプロテスタント、旧教、キリスト教とは違い、布教には
一切興味を持たないことで、ポルトガル、スペイン
イタリアとの相違を強調する。
図らずもプロテスタントとクリスチャンの争いがここ日本の
侍社会に波及する。
 1637年島原の乱が起る。天草四郎時貞は、千々石ミゲルの子では
ないかという噂が流れる。
 長崎に帰ると、寺町辺りや中島川沿いの古い町家を
肩越しに歩く。そうしていると、千々石ミゲルの半生の彼の思いに、
触れようも無いのだが、知りたい熱い思いが胸に湧く。
あのローマの栄光の日々を、多くの貴族騎士、教皇から贈られた
最高の栄誉の記憶を、どのように心の中に押し潰して、一市民として
この町で生きたのだろうか。
中浦ジュリアンの壮絶な拷問死、よりも平凡な人生の中で一生を終えた
千々石ミゲル、清左衛門への気持ちに想い揺れ通う。
 400年の長い時間の流れの果てに、失われたその存在が、一個の大きな
墓石として、奇跡的に出現する。
千々石ミゲルこと清左衛門とその妻を葬ってあるこの墓石は、
大村に深い恨みを持って亡くなったので、大村を睨みつけるように見える
この地に、葬った、と云う伝説がこの墓石にあるそうだ。
この墓の施主、千々石玄蕃、ミゲルの妻、又ミゲル自身、その
波瀾万丈の彼の人生には、思いを馳せるおおくのロマンを感じてならない。