内田 文雄

2017 11 Dec

私が中国で起業することになったキッカケ 1!(上海語学留学時代編)

私がここ上海で起業をするキッカケになったことを、回顧録的に数回に分けて書かせて頂きます。私が一番最初に中国を訪れたのは1993年の4月、そう24年も前に遡ります。

当時はアパレルのワールドにいて、まだ会社も景気が良く*海外研修制度というものが有り、その第2回目に運良くパスし、上海での中国語留学のチャンスを得ました。いま思えばワールドが一番元気が有った時代だと思います。

*海外研修制度とは?

当時ワールドが展開していた海外拠点のどこでも良いので、希望研修地を自ら選び、研修を通じて何を学び、帰国してどのような成果を出すか?という課題で書類審査、面接が有ったように記憶しています。

当時のワールドは、中国上海、台湾、ミラノ、パリ、ニューヨークに拠点が有りました。私の希望地はミラノだったのですが...蓋を開けたら海外研修制度に合格した4人全てが上海で研修をする事になり、江沢民氏も卒業した名門の交通大学の半年間の特別クラスで中国語を学ぶ事になりました。

上海にある交通大学、今でもたまに覗きに行きます

 

 

当然ながら、中国語も全く分からず(と言いますか、中国にはこれっぽっちも興味は有りませんでした)、4人の中では中国語の成績が一番悪い31歳の生徒でした。寮で同室だった一色さん(元々日本での大学が中国語専攻で、現在は台湾でコンサルタントとして御活躍中)には、出来が悪い私の中国語の先生として本当にお世話になりました。

 

朝の8時から昼の12時まで、発音、文法、会話をひたすら半年間も繰り返す授業、大学で昼食を取り午後からは、上海の中心地南京路近くにある上海ワールド国内販売事務所に出勤し、当時上海ワールドが自らのブランド(LEMONDE/ルモンド)を立ち上げていて、そこで売場VMDやスタッフ教育をしていました。

丁度その頃、ご存知の方もいるかもしれませんが、93年に伊勢丹(今の梅龍鎮伊勢丹ではなく、いまは亡き華亭伊勢丹)が淮海路にオープンするという事で、LEMONDEも4店舗(レディス2、メンズ1、キッズ1)を出店し、それぞれの売場に立ち、覚えたての中国語で接客をしていました。

 

当時、研修生の身ながら、伊勢丹の方々(誤解を恐れずに書かせてもらうと、駐在員の方々は、皆さんエリート意識が高く、常に上から目線でした...笑)とは、ここでは書けない理不尽な仕打ちも含めて色々ありました。まぁ伊勢丹として中国1号店を出すのですから、当然ながら必死さは伝わってきましたが。その後は、当時の伊勢丹の駐在員とも仲良くなり、一緒に飲みに行く間柄になりました、いま思えば良い思い出かなぁ。

半年間の留学時代には、中国国内販売の責任者の渡辺昌和さんや、デザイナーの菊地さん達、もちろん同じ研修生の他の3人にも本当にお世話になりました。彼らの支えが無かったら中国での生活に嫌気がさして、志半ばで帰国していたかも知れません。

半年間の研修が終わり、そのまま上海に残り駐在生活がスタートしました。当時は、外国人が住むエリアやマンションが決められていて、私は龙柏飯店の奥の今は取り壊されて無くなった一軒家に住んでいました。日本人駐在員も少なく、日本食レストランもほぼなく、旧虹橋空港(今の第一)近くのシャロン、上海賓館の河久、伊藤屋、ガーデンホテルのローズ、中山公園の一休、などが駐在員の溜まり場でした。

その頃は地元百貨店や専門店が主流の時代で、外資系小売業は伊勢丹や、百盛くらいしか無かったと思います。VMDという言葉も何も存在しない、対面販売で店が客に売ってあげているいった、古き良き中国そのものでした。

ですが、その頃から何となくですが「将来、この発展が目覚ましい上海、中国でVMDとして起業したら、きっと楽しいだろうな〜」と考え始めていました。

 

次回は半年間の研修を終えて駐在し、「ワールドがアジア向けの新たなブランドを仕掛けた時代」について、書かせて頂きます。

 

それでは!