内田 文雄
私が中国で起業することになったキッカケ 13!(いよいよユニクロ退職編)
2010年の5月の上海南京西路旗艦店がオープンした後、台湾1号店のプロジェクトにも絡みつつ、いつ皆に退職を切り出そうか毎日自問自答していました。
VMDで起業したW社の後輩からも「早く一緒にやりましょう!」と強いlove callもあり、少し焦っている自分が居ましたが、「時間を要したがユニクロで小売業を習得できた!」と退職の意志を固めました。ただ、W社を辞めた時と同様に立つ鳥何とかじゃないですが、部門の仕事をしっかり引き継ぐ必要もありました。確か7月頃だったと記憶していますが、上司に報告(柳井会長へは上司が報告)し、同僚に話し、8月末で退職する事にしました。もちろん、一番の理解者である家内にも事前に相談しています...笑
或る人事部責任者の方(今は既に転職)からは「内田さん辞めないで上海に異動しませんか?」という言葉も頂きましたが、「私はサラリーマンとして上海に異動したいわけではなく、上海で起業するためにユニクロで学ばせて頂いたので、決意は変わりません」と話し、丁重にお断りしました。
オフィスも蒲田から九段下に移転、最後は六本木ミッドタウンでした
ユニクロ最終勤務日の夕方、秘書の方に数週間前に無理を言って取って頂いた柳井会長のアポイント、最後のご挨拶に会長室に伺いました。
会長は満面の笑みで迎えていただき、私から「短い間でしたが、本当にお世話になり有難うございました。8月末付けで退職させて頂きます」と切り出したところ「御苦労様でした、ユニクロの売場VMDの進化に貢献してもらい、有難うございました」「ところで今後はどうするのですか?」「そう言えば、内田くんは入社面接の時に将来上海でVMDで起業すると言ってましたね?」...。6年半前のことを覚えておられる...。更に「そう言えば、内田くん3年の期間限定で修行させて欲しい!と言ってましたね?」「うちに何年居ましたか?」「6年半です」と答えると。「有言実行、3年と言ったら3年で辞めないと!」と半分本気、半分冗談で笑いながら言われました。...3年間の修行のことも覚えておられる...。これには参りましたが、予定時間の10分を過ぎ30分以上も色々とお話をして頂けました。「本当に中国での起業大丈夫ですか?」「今後何か困ったら、連絡して来てください」「身体だけには気をつけて」...と嬉しいお言葉を頂きました。私からも「柳井会長こそ、いつまでもお元気で!」「また起業後の近況をご報告に参ります」
あっという間の30分が過ぎて、会長室を出る頃は体じゅうが汗でびっしょりでした。そりゃそうです、この6年半の中で3人、4人の少人数の会議の経験は数知れずでしたが、2人っきりは全くの初体験だったので...笑。私自身は頂いた多くの言葉は嬉しい反面、それに甘えてはダメだ、幾ら出入り自由の会社だけど、起業していくら苦労しても、またこの会社に戻ってきて(復帰しては)はいけない、と自分に言い聞かせました。それから3年後に良い形で、上海で会長にお会いすることになりますが...。
ユニクロは退職者や異動する人に、部署の同僚や共に仕事をした同じフロアーの人達が集まり、花をプレゼントしたり、餞けの言葉を伝えたり、最後に本人がコメントするというしきたりが有ります。私の最終出勤日の退社時間の頃には、続々と集まって頂けました、手前味噌で恐縮ですが、それまでの送別では見たことがない数の人達(約200人近く)に集まって頂けました。当時の営業部門責任者の若林さん、商品部の責任者の香川さんから、有難いお言葉を頂きました。そして私からはお礼のご挨拶と、今後の志、さっき会長から頂いた暖かいお言葉の話をしました。6年半と自分の中ではあまりにも濃く、まるで20数年も居たような錯覚を覚えるほど大変だったけど、結果的に全てが勉強になったこと、そして色々助けて頂いたユニクロの人の暖かさなど...6年半の出来事を思い出し、思わず涙してしまいました。あの時のことは今でも忘れられません。
このユニクロでの6年半という貴重な時間は、W社を退職してすぐに起業したかった私にとって遠回りのようで、実は中国でVMDとして起業するために、通るべき道であったと強く思います。この経験は十分すぎるほど、起業のキッカケになりました。年齢は既に50歳になっていましたが...。
そして、それまでなかなかプラベートの長期の休みが取れなかった反動からか、退職後すぐに起業に向けLAからPS(パームスプリングス)、NYの旅に出ました。それからオーストラリアのブリスベーンに留学している息子に、ユニクロを辞めることを直接伝えるため家内と一緒に会いに行きました。
次回は「起業に向けて日本での仕事編」です。
それでは!