北村 禎宏

2018 24 Nov

彼我の違いはあれど

先週はあっと驚く一週間であった。

 私たち庶民は、5000万円ほどの蓄えがなければ老後の安定的生活を安心して迎えることが難しい時代に突入している。それなのに50億円とも80億円とも、いったい何がやりたかったのだろう?

 現場で汗かくワーカーの人々の退職金の何百人分も搾取して、ディーラーでは一台一台一所懸命販売している乗用車の売上の何千台分もポッポないないして。いっぱしの資本家気取りだったのだろうが、そうは問屋が卸さないと日本の文化が彼を窮地に追いやったことは間違いがない。法の執行に関する文化や慣習が洋の東西のみならず、各国々によってまったく、もしくは微妙に異なることから、当事国の仏蘭西をはじめ世界中の世論は様々に展開していくだろう。

 ほんの二十年ほど前まで一億総中流の古き良き時代を謳歌していた私たちには、たとえ3σ程度の発生率だとしても突出した特権階級や富裕層の存在を決して面白くは思いたくないDNAが深く根ざしている。それはほんの一瞬の通過点としての真夏の夜の夢に過ぎなくて、坂道を転げ落ちるように進行している格差社会の到来を、肌身では感じていながらも理屈として頭では理解したくないという本能が反旗を翻した。

 わが国の21世紀の経済誌に残るトピックになるのは間違いないが、それは来たるべき二極化した格差社会への移行に抗うささやかな抵抗の歴史としてであろう。
大阪万博が決定し、的外れな議論が飛び交っている。自分たちが1970年に感じたような強烈なインプレッションを今の若者たちにも是非!というものだ。

 私は8歳で岡山から日帰りで大阪万博を経験したが、そのとき外人を見るのははじめての経験であったし、アメリカ人以外の外人もいるんだというのが素直な驚きだった。インターネットで世界が繋がり、SNSで個人が好き放題発信して受信ができる今、リアルな博覧会にどれほどの価値とインパクトがあるのだろうか?松井さんはじめ、処々の関係者の企画力が問われるところだ。

すでに新しい東京五輪音頭はこけている。