北村 禎宏

2018 04 Aug

生産性って

 失言というべきか、思わずはき出してしまう本音というべきか…生産性を子供をつくることのみの狭義に限定して、あるだのないだのと議論されてもあまりの知性の低さに唖然とするばかりだ。

 一昨年あたりから多くの企業が生産性アップに四苦八苦していることは、研修のコンテンツや対象者を見ていて如実に感じられる傾向だ。震源地は政治家が発した働き方改革であることを当事者の人々はどれだけ自覚できているのだろうか。中には会議の生産性にフォーカスを絞った研修を実施する企業もある。

 およそ生産性とは「アウトプット÷インプット」で表される意味の広い概念のはずだ。インプットはリソース(ヒト/モノ/カネ/情報/時間)であり、アウトプットは「効果(定量/定性)-リスク(インパクト/確率)」と表現したりする。

 インプットを精子と卵子に、そしてアウトプットを一人の人間という定量的結果のみに限定して生産性を議論されても、幼稚園児のお遊戯にすら及ばない。スポーツ界においてもおかしげな話しが後を絶たないが、それぞれに共通して感じることがある。当事者たちの顔が悪いことだ。顔が悪いとは何も造形の善し悪しを論じているわけではない。表情の赴きが常人とは異なるという意味だ。半世紀以上も多くの人々と接しているとそれをかぎ分けるくらいの能力は身につくものらしい。

 常軌を逸する発想や言動を厭わない塀の内側の顔。何かに取り憑かれたようで焦点が定まらず目が泳いでいる顔。見たくもない顔が毎日のように私たちの前にさらけ出されて吐き気をもよおす国民は少なくないだろう。

 「きけわだつみのこえ」の第二集まで読み進んで、あとは「知覧からの手紙」だ。日本人は、8月6日9日15日という節目には歴史の過ちを猛省しなければならない。
暴走したのは陸軍であり追随したのが海軍であるが、猛烈にアジったマスコミとそれに踊った世論を形成した全国民が共同正犯のようなものである。

 我が党には55年体制どころかこの国を壊滅に陥れた戦前の軍の思想(員数教育)を引き継いでいる構成員が少なからずいて、それを正面から指摘したり更正する力はありませんと言って欲しいものだ。もしくは、将来の国の生産性の宝たる学徒をその本意から引きちぎるようにして死地に赴かせることを阻止できなかった政治家の末裔として生産性を議論する立場にもないしむろん権利もありませんと言えないものか。

 事態が改善することはないが、少なくとも多くの国民が溜飲を下げることができるのではないだろうか.100回を迎える記念大会で甲子園に舞う若人たちを見ることは何よりの夏の楽しみではあるが、夏だからこそ不本意に散っていかざるを得なかった多くの若者たちの魂に寄り添うことを忘れてはならないのが日本人の宿命(さだめ)だと思うのだが。