北村 禎宏

2020 10 Aug

透けて見えてくるもの

 数字の上では医療機関がひっ迫していないとの政府見解に反論した杏林大病院の山口氏が朝日新聞で語った論考から考察してみた。


 「政治家には想像力が欠けている」との指摘には頷かされる。まるで踊る大捜査線だ。「事件は会議室で起こっているんじゃない、現場で起こっているんだ」との悲痛な叫びは果たしてどこまで会議室の面々に届いただろうか。数字の上では余力があると認められるかもしれないが、現場の生々しい実状は単純な引き算だけで算出はできない。数字では語り尽くせない実状を埋め合わせるには人間の想像力が欠かせないとの主張には強い説得力がある。

 春節で中国の人々が世界中、国中を奔放に動き回ったことが引き起こしたその後を見聞きしたことにより、想像力を駆使して自分の判断で行動や活動を制御している国民は少なくない。一方の為政者たちは、積極的に責任をもってこの国と国民の命と安全のかじ取りをすることなく、神の見えざる手に成り行きをゆだねている。

 国民の自己判断、自己責任にもとづく相互作用の結末を導くのは、まさに神の見えざる手だ。神は細部に宿るという言い方も、神は現場に宿るという言い方もある。神様はサイコロを振らないと言ったのはアインシュタインだが、神様が振ったサイコロの目をみて、都合がよければ自分の手柄、都合が悪ければ他のせいにしようとする魂胆が透けて見えてくる。

 結果を導くのではなく、結果に便乗したり、逃げ回ることを生業としているようではお先は真っ暗だ。見えざる手の担い手としての神様に便乗するのではなく、細部や現場に宿っている神と真摯に向かい合ってもらいたいものだ。