北村 禎宏
やっぱ古典
典的書籍に触れるナガレやキッカケは様々であるが、私の場合は多少のインターバルや寄り道を経ながら芋づる式にたどり着く場合が多い。
今回はユクスキュルの「生命から見た世界」とシュレディンガーの「生命とは何か」に到達した。生物学の書籍では何年かにマイブームが訪れてダーウィンやらワトソンやらグールドの原典にあたることを繰り返してきたが、年明け先の大御所二人にたどり着いた。
ユクスキュルは生物学者の本川達雄氏と哲学者の國分功一郎氏から両挟みされて原典にあたれと背中を押された。そしてシュレディンガーの猫で有名な物理学者が何故に生物学?という好奇心から「生命とは何か」を経て、ウィーナーの「サイバネティクス」までリーチした。
アカデミックな世界では二次引用(孫引き)は御法度であるが、私たちがビジネスに役立つ勉学に勤しむ分には大きな問題にはならない。とはいえ、研修やコンサルティングを通じた人材育成を生業にしている身としては、やはり原典に触れておかねばというプレッシャーがある。表面的知識のスルーパスはできても、当事者や関係者のバックグラウンドやニュアンスまで伝えるには岩波文庫の写植文字はもってこいだ。
ただし知識を頭に注ぎ込むという点では、中身の三分の一もスムーズに頭に入ってくることはないのが古典の悩ましいところではある。その代わり、数十年、一世紀近く前の知識人がどのように鋭利な感性溢れる思考を巡らせていたのか、先人たちが何を見て何を思いながら思惟にふけったのか、体温と臨在感は確実に肌に感じることができる。
ナレッジやデータを記憶、記録し、そのままもしくは分析的に再現するだけでなく、魂と温度をあらゆる感覚器を動員して肌身で感じ取り著者の熱量を移転させるのも読書の醍醐味だ。このような読書の側面からも、ファクト・ベーストの分析的アプローチ(サイエンス)だけでなく、センシティビティ・ベーストによるデザイン思考の重要性を再認識することができる。
そのようなことを考え、いや感じさせてくれた古典三冊であった。