船橋 芳信

2020 23 Jul

音楽と述語制論理


音楽と述語制論理
今、頭の中を駆け巡っている。日本語は述語制言語であって、
主語制言語ではない。
どういう事かと言えば、日本語で話をする時に私とか貴方とか彼とか、使うのだが、それは主語ではない、そして日本語には、主語は必要としない。未だ、良く理解してはいないのだが、妙に合点がゆく。

この述語制表現様式の中に音楽が含まれるのでは無いか?と、
音楽表現の準備に演奏家は、対象とする音楽の解釈に基づいて作曲家への音楽解釈に忠実に演奏する。
演奏されて流れて来る音楽は、聴く人の感情に沸き上がる起伏に依って、音楽は捉えられて行く。
演奏家の演奏の意思の伝達は、演奏しているその時の一瞬であり、音楽となって流れ出された音楽は、その瞬間から、聴く側に受け渡され、其の音楽はオブラートに包まれた聴衆の感情の起伏となって、それぞれが其々の世界に瞑想し音楽とのコミュニケーション、音楽家の演奏を愉しむ。
只、其の音楽に対する知識、聴衆のレベルには差がある。作曲家の作曲した時代、作曲家の音楽に対する個人的データ、また、作曲家の環境、演奏される音楽との出会い回数など、情報は、幾万の襞状態になっていて、時相、空間、感覚との微妙な違いを生み出し、時間芸術として、感覚の中で、眼にする事が出来ないまるで煙が大気に、吸い込まれるが如く、消えてしまいます。
感覚で捉えられた音楽を、言葉に置き換えて眼に見えるものとして、表現してみようとすると評論的文体となって音楽と接する手助け、杖が生まれてくる。
一方、ある音楽家が、表現したい音楽を、文章で表現する時、その文章には、時間の経過も場所の設定も、感覚が感じるままに、飛翔し、まるで光が一瞬放たれたインパクトのみを残し、漠然とした感知のみが、感覚を刺激する。そして、時折、音楽は感覚的官能の世界の極致へと誘ってくれます。


日本人の思考でイタリア人との会話は、ギクシャクしてしまうのは、言語体系が異なるからだが、我々日本人は、対外国人に対して其の違いにはっきりとした理論を持っていない。
相手の身になって考えるという習性は、会話の成立に障害は齎すが、何ら役には立たない。
故に好き嫌いがはっきりしない、自分の意見を持たない、イエスと言ったのに、サインをしない嘘つきだ、云々、云々。
日本人の「はい」はYESではない。「はい、私は理解はしています。貴方の仰っている事は、しかし、、、」と言う伏線の付いた言い回しなのである。
それを日本人は、YES と言ってしまう。NOと言う習慣が無い為であろうか?


ジャンアンドレア・ガヴァッツェーニ氏は、イタリア第二次オペラ黄金時代に、活躍したスカラ座の大指揮者です。音楽のみならず、その知性は、多くの文筆を遺している。其の一冊の中に、Non eseguire Beethoven 【ベートーベンを演奏するな!】という本がある。何度読んでも理解し難い文章である。
然し、述語制言語、主語制言語の存在を知って、フト思った。
マエストロは、オケを指揮するがごとくに、文章を書く。その内容は、具体的なモノではなく自然に感じるがままに、音楽と接するように読んでゆけばいいのではないかと思った。
マエストロの指揮棒の先から生まれ出る音楽のように、その文章は、香り高き1800年代の芳しき音楽の世界の背景の情景が宿っている。
未だ自動車も、蒸気機関車も存在しなかった時間の流れの中で、人の意識、精神の有り様、時間感覚の緩やかな流れの中で、まるで、
グスタヴ・クールベが描く森の静けさ、山奥の深い和泉の湿った空気と水の躍動、情景と音楽とが交差しあい、述語制芸術の奥深さが、
スクリーンの向こうにある永遠と相見えてくる。
音楽は時間芸術、消えてしまう儚い今、決して留めようとしてはならない。
感覚に委ねて深い息と共に有れば良い‼️

Yoshi

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