船橋 芳信
ナポリ民謡演歌分析!
1月28日、日曜日、第5回アトリエコンサートが無事盛況のうちに終了した。
ナポリ民謡と演歌、其の比較を演奏会で表現しようと試みる。
ナポリ民謡は、男が女性への愛の告白をテーマに、其の熱情を相手の女性にぶつけると言う歌である。
恋愛の過程は、愛の告白シーンの歌、所謂、セレナーデと呼ばれる、女性の住む家、彼女の窓の下、ギター片手に恋の想い、心情を歌でぶつける。
セレナーデは、古くギリシャの時代から伝えられている。何時の世も何処の世界も、恋する男の行動は、似たような物だろう。
セレナーデで、コミュニケートを摂るイタリア人は、主な伝達方法として声、音声、聴覚に訴える。
日本の演歌と比較してみると、主人公は女性が多く、悲恋の悲しみをつぶやくように、訴える。
男の存在は、女性の想いの中に、漠然と存在し、恋する男が恋愛対象の相手の女性に向かって、その熱い心情を吐露するのを見るのは稀である。
悲しい酒
一人酒場で飲む酒は、分かれ涙の味がする
飲んで捨てたい面影が飲めばグラスに又浮かぶ
ひとりぼっちが好きだよと
言った心の裏で泣く好きで添えない人の世を
ないて怨んで夜が更ける
悲しい酒、に見る女性の嘆きは信じ難い程に、リアリティに欠けるが、日本では受けている。
この歌には、この状況からして、女が1人で酒場で悲恋のやけ酒を飲んでる状況が思い浮かぶ。
それを、美空ひばりは、台詞を入れてドラマティックに、悲しみをこみ上げて熱唱する。
シングルレコードで145万枚売り上げたミリオンセラーでもある。
さて、リアリティに考えるとこのような思いに悩み苦しむ女性の存在は、少し嘘っぽい。
現実感溢れる女性の生活観からして、未練たらたら別れた男を想って、やけ酒、一回はあるだろうが2回は無い。
調べてみると作詞かは石本美由起、男性である。作曲は古賀政男。男の架空の世界の女性像が描かれている。
つまり振られた女は、こんな風にいつまでも悲恋を背負って生きて行くのだ。
嗚呼、悲しい存在なんだな!って男の幻想的空想的女性観が垣間見える。
一方ナポリ民謡では、恋愛過程2、成熟時の相思相愛の希望と愛に溢れた充実の歌が有り
恋愛過程3、別れ、破局の歌がある。
特に男性が、振られた後の捨てないでくれと,相手の名前を呼び、叫ぶ歌は絶品である。其処には悲喜こもごも、人生の動機と深く突き刺さりこの愛に関するテーマは、歴代の
テナー達にナポリ民謡を歌い続かせてきた。
カタリカタリ、
カテリーナ、何故こんなひどい言葉を口にするんだ!
何故話をして私の心を悶えさせるのだ、カタリ!
薄情なつれない心
君は私の命を奪った、
なにもかも過去のものになってしまった
君の中には私の事等何も考えていない!
カタリ・カタリ!
直接、相手の女性に言葉、歌で訴えてくる。其の心情の吐露は、ドラマティックである。
日本の万葉集の中に
誰そ彼と 我をな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つ我を
誰なのあの人は?等と私に聴かないでおくれ!
秋深まる九月の露に濡れながら、あなたを待ってるこの私の事を!
はて、私はこの歌を読んだ時、待っているのは男の方だと考えた。
しかしどうも待っているのは女の方らしい。先の悲しい酒と同じ構造を考えた。
万葉集の時代は、750年頃、此の時期女性が句を詠み、それが万葉集に組み入れられるとは
考えられない。つまり作者は男である。女性の身になって句を詠んだのである。
愛の心情を、内に秘め其の想いは胸の中で煮詰まって行く。分かって欲しい俺の心情を!と
声にはしないで、文にして想いをを醸し出すようにする。文章で表現使用とする。
イタリア、ナポリの恋愛、日本のそれとでは、表現方法がかくも違いがある。
どちらが、良いのかナポリ風に少し憧れてしまう。