船橋 芳信

2018 29 Jan

ナポリ民謡演歌分析!

1月28日、日曜日、第5回アトリエコンサートが無事盛況のうちに終了した。

ナポリ民謡と演歌、其の比較を演奏会で表現しようと試みる。

ナポリ民謡は、男が女性への愛の告白をテーマに、其の熱情を相手の女性にぶつけると言う歌である。

恋愛の過程は、愛の告白シーンの歌、所謂、セレナーデと呼ばれる、女性の住む家、彼女の窓の下、ギター片手に恋の想い、心情を歌でぶつける。

セレナーデは、古くギリシャの時代から伝えられている。何時の世も何処の世界も、恋する男の行動は、似たような物だろう。

セレナーデで、コミュニケートを摂るイタリア人は、主な伝達方法として声、音声、聴覚に訴える。

日本の演歌と比較してみると、主人公は女性が多く、悲恋の悲しみをつぶやくように、訴える。

男の存在は、女性の想いの中に、漠然と存在し、恋する男が恋愛対象の相手の女性に向かって、その熱い心情を吐露するのを見るのは稀である。

悲しい酒

一人酒場で飲む酒は、分かれ涙の味がする

飲んで捨てたい面影が飲めばグラスに又浮かぶ

ひとりぼっちが好きだよと

言った心の裏で泣く好きで添えない人の世を

ないて怨んで夜が更ける

 

悲しい酒、に見る女性の嘆きは信じ難い程に、リアリティに欠けるが、日本では受けている。

この歌には、この状況からして、女が1人で酒場で悲恋のやけ酒を飲んでる状況が思い浮かぶ。

それを、美空ひばりは、台詞を入れてドラマティックに、悲しみをこみ上げて熱唱する。

シングルレコードで145万枚売り上げたミリオンセラーでもある。

さて、リアリティに考えるとこのような思いに悩み苦しむ女性の存在は、少し嘘っぽい。

現実感溢れる女性の生活観からして、未練たらたら別れた男を想って、やけ酒、一回はあるだろうが2回は無い。

調べてみると作詞かは石本美由起、男性である。作曲は古賀政男。男の架空の世界の女性像が描かれている。

つまり振られた女は、こんな風にいつまでも悲恋を背負って生きて行くのだ。

嗚呼、悲しい存在なんだな!って男の幻想的空想的女性観が垣間見える。

一方ナポリ民謡では、恋愛過程2、成熟時の相思相愛の希望と愛に溢れた充実の歌が有り

恋愛過程3、別れ、破局の歌がある。

特に男性が、振られた後の捨てないでくれと,相手の名前を呼び、叫ぶ歌は絶品である。其処には悲喜こもごも、人生の動機と深く突き刺さりこの愛に関するテーマは、歴代の

テナー達にナポリ民謡を歌い続かせてきた。

カタリカタリ、

カテリーナ、何故こんなひどい言葉を口にするんだ!

何故話をして私の心を悶えさせるのだ、カタリ!

薄情なつれない心

君は私の命を奪った、

なにもかも過去のものになってしまった

君の中には私の事等何も考えていない!

カタリ・カタリ!

直接、相手の女性に言葉、歌で訴えてくる。其の心情の吐露は、ドラマティックである。

 日本の万葉集の中に

誰そ彼と 我をな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つ我を

 誰なのあの人は?等と私に聴かないでおくれ!

秋深まる九月の露に濡れながら、あなたを待ってるこの私の事を!

 はて、私はこの歌を読んだ時、待っているのは男の方だと考えた。

しかしどうも待っているのは女の方らしい。先の悲しい酒と同じ構造を考えた。

万葉集の時代は、750年頃、此の時期女性が句を詠み、それが万葉集に組み入れられるとは

考えられない。つまり作者は男である。女性の身になって句を詠んだのである。

愛の心情を、内に秘め其の想いは胸の中で煮詰まって行く。分かって欲しい俺の心情を!と

声にはしないで、文にして想いをを醸し出すようにする。文章で表現使用とする。

イタリア、ナポリの恋愛、日本のそれとでは、表現方法がかくも違いがある。

どちらが、良いのかナポリ風に少し憧れてしまう。