小島 健輔
キモノは使い手価値に戻れるか
仕事上はネットで十分とランウェイから足が遠のいて久しいが(若い頃はパリやミラノまで毎シーズン、行ってました)、今でも個人的な趣味としてロリ系やストリート系、キモノのランウェイを覗くことがある。先日、久しぶりに斉藤上太郎のショーに伺った折の印象を語ろう。
斉藤上太郎は東コレ唯一のキモノデザイナーで毎回、斬新な柄合わせに挑戦するが、着付け(洋服で言えばウエアリング)はエレガンスモダンな正統派で、間違っても町娘風や女郎風に崩すことはない。洋服で言えばクチュール系であってストリート系ではない。それが洗練された安心感を与えてはくれるが、晴れ着化した今日のキモノの枠を打ち破るやんちゃを期待すると肩透かしを食らう。イキを感じさせるデニムキモノにも注力しているが、着付け着こなしは女性は正統派、男性は大通的であって、小股の切れ上がった町娘やいなせな遊び人の着方ではない。
アールヌーボー以降のアーカイブが一通り頭に入っている洋服ほどキモノの服飾史に詳しいわけではないが、スイ(粋)な元禄期からイキ(意気)な文化文政期へ、イノセントな大正ロマン期から整形着付けの現代へ、という変化ぐらいは知っている。そんな着付けの歴史的変遷から見ると斉藤上太郎は現代キモノの洗練を追求する正統派であり、町娘や遊び人のストリートスタイルとは距離がある。
鈴木春信が描いた小股が切れ上がった町娘、あるいは竹久夢二が描いた儚げな下町女こそ、現代風に洗練された整形着付けの対極にあるストリートスタイルではないか。鈴木春信が描いた町娘は身頃の合わせをギリギリまで浅くして緋縮緬の蹴出しを微かにチラ見せるべくO脚内股で小走り、見えてしまうことを前提に内股に白粉まで塗っていた。竹久夢二が描いた着物姿の下町女は帯板も補正のタオルも入れず、腰回りは色っぽくくびれている。
キモノは身頃の合わせはもちろん、衣紋の抜き方や半襟の見せ方、帯の太さ・高さ・結び方などで初々しさや成熟、おきゃんな町娘や商家のご内儀、武家勤めの腰元から深川芸者まで、使い手の着付け着こなしが魅力なのに、作り手売り手側の論理で使い手側の創造余地を限定してしまった嫌いがある。乳房も腰のくびれも直線的に補正してしまう現代風の着付けがキモノ本来の魅力である『使い手による価値創造』を矯めているとしたら、作家(作り手)価値訴求の高価格化がキモノ離れの一因となったとしたら(80年代DCブーム期の昔話ですが)、キモノ業界は原点から出直す必要がある。
アパレル業界も似たような過ちを繰り返してきたが、ノームコアを起点とした使い手回帰が“抜け”たウエアリングで市場を蘇らせ、スポーツウエアとドームウエアのリミックスがストリートスタイルをメジャー化させてカジュアルの新しい世界を切り開いたのは不幸中の幸いというべきだ。作り手主導のクリエイションだけではマーケットは盛り上がらない。使い手がキモノのようにウエアリングで価値を創造してこそマーケットは活性化するのではないか。ファッションウィークの最中、一石を投じたい。