北村 禎宏

2019 20 Oct

働き方改革の功罪

 働き方改革は各企業が真正面から取り組まざるを得ない現代的経営課題だ。はたして正しい手順で対処できているかどうか、見直す必要がある事例が少なくないと想像される。

 「因果律」の見極めは三枝匡氏がもっとも重要視する経営リテラシーのひとつだ。働き方改革にまつわる因果律を紐解くと次のようになる。働き方改革が因となってもたらされる果があるとすれば、働く個々人にもたらされる膨大な余暇時間だ。精神的ゆとりも副次的に手に入る可能性が高い。そして、それらの余剰は働く人々のワークライフバランス獲得に十分寄与することが期待される。

 翻って企業の側はどうか。残業時間が極小化されて有給休暇消化率がほぼ100%になったとき、従業員の労働時間の総和が従前の80%になると仮定しよう。削られた20%が従業員の怠惰によるダラダラ時間に過ぎなかった場合にはビフォアアフターで何の問題も起こらない。しかし目一杯働いていた時間が20%減少するとなると生産性の向上を伴わない限り深刻な問題が発生し得る。

 すなわちアウトプットの質と量までもが8掛けになってしまっては元も子もないということだ。そこで労働時間と生産性の因果律を考えてみる必要が出てくる。労働時間の減少を因として生産性向上という果が得られるかという問いかけにどう応えられるだろうか。逆の因果律は、生産性向上を因として労働時間短縮という果が得られるというものになる。どう考えても後者の因果律に分がありそうだ。

 つまり、生産性アップの施策が時間的に先行(少なくとも平行)して因を形成することで、事後的に得られる果実が働き方改革ということになる。多くの企業が右に倣えでまずは労働時間短縮に手をつけてはいるが、その一方で生産性の向上が野放しにされてはいないだろうか。働く時間を短くされた労働者が自発的に協働して生産性の向上を図るはずだという前提はあまりに乱暴だ。

 パーキンソンの法則を思い出してほしい。第一法則は「仕事の量は、完成のために与えられた時間をすべて満たすまで膨張する」だ。逆読みすれば、与えられた時間に見合う仕事量までシュリンクと導かれる。量がシュリンクする分、質の向上が果たせなければアウトプットの劣化は免れない。

 これまでの慣習の下で与えられた時間にあわせて膨張した仕事量の大半が不要不急のゴミのような仕事であった場合には企業の成果は担保されるが、それが判明した暁に働く人々の胸に去来するのはどんな気持ちだろうか。

 人間の幸福度は与えられた余暇時間をすべて満たすまで膨張するという法則が成立するよう期待しようではないか。ただし時間は得られても先立つものが必要となる現実も見逃してはならない。