北村 禎宏
比例するものとそうでないもの
地球の大きさは地質学的にはほぼ不変である。しかしながら私たち人間にとっての地球のサイズは急速に小さくなってきた。ヒト、モノ、カネ、情報のうちカネと情報に国境はなくなり時間差もほぼゼロだ。ヒトもモノももの凄い量とスピードで国境を越えて世界を駆け巡っている。
三年ほど前には、東京オリンピックの頃に3000万人に達するのではと予想されていたインバウンドは既に4000万人を超える勢いだ。大きなスーツケースを抱えた海外からの旅行者を見ない日も街もなくなってしまった。
こうして急激に狭くなる地球に比例するものとそうでないものがある。人々のホスピタリティと包容力、そして文化的多様性の交わりは確実に比例して増加していると感じられる。反対に狭くなってしまうのが、どうやら人や国の了見のようだ。
米国も欧州も保護主義という土俵の上で火花を散らしているが、地球規模で70億人の全体最適を考慮するだけの度量は私たち人間には備わっていないのだろうか。かく言う私も家族や社会にいかに迷惑を掛けないで生を終えることができるか、自分の余命に責任をもつのが精一杯だ。
この世は私利私欲で溢れかえっていて、努力や倫理的正しさが必ずしも実を結ばない理不尽なことばかりであることから、神やあの世は創造され宗教が発達してきたことはご存じの通り。
つまり全地球規模で全体最適をかなえて、まっとうな理屈を貫徹することができるのは神のみということを私たち人間は知っている。スポーツで頂点を極めた指導者たちには、人である選手の心が見えなくなってしまったのだろうか。神となったと勘違いして、さらに神のあるべき姿をはき違えてあるまじき言動に突き進んでしまったのだろうか。
我が世の春を謳歌しているかのホモサピエンス。我々は既にルビコン川を渡ってしまっていて、ニッチ(生存領域)を自ら破壊したりシュリンクさせる絶滅スパイラルに突入しているのではないか、とも考えさせられてしまう。思考においては悲観的で行動においては楽観的であれというのが戦略の要諦だ。楽観的に考えて悲観も楽観もなく漫然と行動していていいのだろうか。