船橋 芳信

2018 29 Jul

エティカルファッションとは!

エティカルファッションについて考える。

エティカ、倫理、そう言えば、高校の授業に苦手な社会倫理という
科目があったのを思い出す。何の興味も持てなかった科目の一つだった。
どうしてこんな科目があるのか不思議にさえ思っていた。
最近、倫理観の欠如が、社会生活に風穴のように広がりを見せ始めている。
人に見られなければ、何をやっても良い、
あいつもこんな事をやっているから、これぐらいは大丈夫だ!
民主主義とは、選挙前でのみ、一般大衆にある主権、選挙後は一切の主権は失われる。
アメリカ大統領に直接会って依頼しているから、きっと巧くやってくれるだろう!
選挙に勝って、大義名分は取れた、禊は受けた。罪や汚れは取れた。
さあ思う存分、やったるぞ!
 
コレは手抜きしないと、価格が守れない。生地もモット安くないとやって行けない。
伸び止めテープは手間を省く為に、接着芯を使おう。
身頃は毛芯は使わず、ハザシの手間は大変省けるから接着芯で行こう。
生地の蒸気掛けは、手間がいるから、無しで行こう。
裾のまつりは時間短縮の為、両面接着芯で押さえとこう。
さあ、手間隙抜けるところは沢山あるぞ!
コレで、あとは安い労働賃金の後進国に行って、工賃値切ってガンガンやろう!
 
自覚意識の欠如は、其の意識レベルは無いに等しいから、周りを伺い比較しつつ
その度、こんなもんだろうな!と自分の位置を決めて進む。
この行動には、自己の確立した判断基準は、いつも周りの状況に左右される。
従って、結果に対する責任感も欠如、同じ間違いを、歴史の一コマ一コマに繰り返す。
 
作り手、創作作業と倫理感を結びつけると、作品に限界限度が生まれてしまう。
若い頃、既成事実、社会が要求する道徳規範に、強く対抗意識を持っていたのを遠い記憶の隅にあるのを、思い出す。
言って見れば、あのときの社会通念への反感、対抗意識そのものこそが、創作エネルギーを担う要素だったのかと、
つくづく思う。
エティカルファッションって、自分なりに考えてみた。作る側の倫理観をどう反映させるのか?
売る為の一つの販売用語の一つかもしれない。かといって私の服は、オートクチュールですよ、とは違う。
又オートクチュールそのものは、ほとんど歴史のクローゼットに入り込んだまま、出て来はしない。
出て来ても、飾られるのが精精で、活用、制作まで持って行くノウハウは、歴史書の中に
スポットライトを当てられた時に浮かび上がって、40ワットの電灯の輪の中に、寂しく浮かび上がる。
手を抜かず、時間を惜しまず、しかも今を表現する洋服を物作りの倫理観と職人の哲学を作業に、服に、込めて作って行きたい。