船橋 芳信

2020 27 Jan

My Favorite Thing

My Favorite Thing

 
1960年代、戦後日本に導入されたJaz 、コルトレーンのMy Favorite Thingは、
ジャズ喫茶で良く聴いた。70年に入って大学進学の為に上京した。
安保、フーテン、マンガ、学生運動、世の中は日本列島改造論に、景気は上昇し、
社会情勢は社会変動に揺れ動きながらも、学生生活はひたすらノンポリ生活、アルバイトに徹していた。
新宿のジャズ喫茶、DUGには良く通った。先ずは、紀伊國屋に寄り、読む本、または雑誌に目を通す。
当時良く見ていた、美術手帳、スィングジャーナル、ジャズ関係の本を買い、DUGの入口二階へ上がる階段脇の
アカシアで、ロールキャベツ、当時120円を食べ、いざ、DUGへ!
 懐かしい新宿の良く行った三平食堂の三平ランチ、此れも120円だった。大学の学食の定食に比べ、20円高かった。
ヒルトップスの二階の喫茶店は、ガラス張りのオープンスペースを思わせ、窓の外の白樺の樹木が、新宿の喧噪から
リッチな清涼感を与えてくれていた。
 喫茶店へはいつも1人で行った。図書館に行く感覚だったのだろう。本に接していると、何か高揚感に浸れていた。
そんな高揚感は、一人歩きしては、誇大妄想への自尊心を奮い立たせてくれていた。
 喫茶店でもただただ、時間つぶしのコーヒーではなく、サイフォン、またはドリップ式の一杯コーヒー、
自家焙煎のコーヒー豆を挽いて出すカンンター珈琲店が流行り始めるのもこの頃だった。
 自分が付けた喫茶店のランクがあった。絶対に行かない喫茶店は、豪華で、高級なサロンイメージのものがそうだった。
名曲喫茶店は、それでもたまに行った。中野のクラッシックは、薄暗く棚には埃が雪のように重なり、珈琲のミルクピッチャーは、
マヨネーズの蓋、グラスは、ヨーグルトのビングラス、大きさはまちまちという、お構い無しの店ながら、客は学生の個の溜まり場だった。
中野はクレッセントにも良く通った。
 渋谷に行くと、ジャンジャン、パルコ劇場、ジャンジャンは、シャンソンとジャズ、思い出の場所でもある。
吉祥寺ではファンキー、当時500万円もした、パラゴンとか言うスピーカーが入って、珈琲代が倍に跳ね上がったのを思い出す。
 別格だったのが、凮月堂だった。其処は吹き抜けの高い天井の一階と回廊風の2階席があった。
店に入ると、タバコの煙とで靄がかかり、バロック音楽がかかっていて、フーテン、
芸術家風のイラストレーター達、芝居関係者、役者、作家,物書き、等が屯していた。
 外人フーテンも多く、個性的なアーティスティックな人達の空間だった。
そんな凮月堂に入ると、疎外感を強烈に押し付けられた。
 DUGに戻る。店の扉を押し開けると、テナーサックスの響きが耳に心地良く入り込んでくる。
コルトレーンのマイフェヴァリットティング、私の好きなもの、だ。
 好みに沿って生きてゆく!此れ迄、頭で考えなく感覚で、物事を選び、好きなものだけに寄り添って生きてきた。
其の好きなものの核が、はっきりと見えてくる。其の漠然とした感覚の核に沿って生きてゆく、此れからの明日。
昔日の漠然とした夢は、はっきりと見えてきた核に沿って、今を、今日を生きてゆく。