船橋 芳信

2019 23 Feb

Corso Venezia 16番地

Corso Venezia 16 Milano

モノローグ 1)
Corso Venezia 16番地は、我がイタリア、ミラノ生活への玄関だった。
1981年9月、リミニと言うアドリア海に面するリゾート地に, OMUNIBUSという
メンズのズボンメーカーがあった。其処で日本人デザイナーの紹介で、
パターンメーカーとしてコレクション契約で働いた。真夏のリミニは、ドイツ人の
若者の安いリゾート地として、有名で、RIMINIに行こう!はドイツ人学生の、
夏のアバンチュールを過ごす青春の合い言葉だったらしい。海辺の街は観光客で、溢れていた。
 1981年の夏、駅の間近にあるホテルナポレオンを定宿に、コレクション作りに励んでいた。
ミラノを拠点にニットデザイナーをしているENZINO MITOLOと知り合った。
ニットデザインをメインに仕事していると言う。未だイタリア語もままならぬ頃の事だ。
 彼はしきりに、ミラノへ来る事をすすめたが、住む当ても無くては、ままならぬ。
自分の家に寄宿して、仕事してはどうかと言う。
 オムニブスの社長、ピエロは、「yoshi 良いチャンスだと思うよ!」と、背中を押してくれた。
 12月の上旬、夕方仕事を終えて、Enzino の白いポルシェ、356に乗って、ミラノへと出発した。
ミラノに着いたのは、夜中を回っていた。ミラノの街中は、白い霧が覆い、街灯の光だけが、
暗闇にボーッと灯っていた。
 朝、静けさの中で目が覚めると、中庭が覗けた。
静謐に整備された中庭には向かう側の大理石の石廊が整然と佇んでいる。
 「ここは一体何処だろうか」
夜遅く付いた家の扉は、木の大きな頑丈な扉だったのを思い出した。
凄い館だったのを思い出した。
 この館は、Palazzo Servelloni, ナポレオンがミラノに入城した際、居城とされていた。
又、イタリア統一の際、エマニュエル・ヴィットリオ2世が居城としていた。
 アパートは、2階で、螺旋の階段を上り、ドアを開けると12畳程の部屋が3ツ横並びになって、一番奥の部屋を寝室に使っていた。
右奥の突き当りに2階への階段があり、4畳半程の部屋が二つ、シャワールーム、奥は、キッチン、食堂になっていた。
私の部屋は、二階の一部屋に、隣には、Massimo Albini, Walter Albiniの弟、マッシモが、居候していた。
彼は丁度、奥さんとの別居中だっただった。
 ミラノは、その昔、運河が至る所に巡らされていた。Corso Venezia と交差するvia Senato,via Visconti di Modroneには、至る所に、
船着き場の面影が見受けられる。ミラノ人はジェノバまで運河を通すのが、
夢だったらしく、古くはレオナルド・ダヴィンチの設計に依る運河も存在する。
 車の発明発達が、運河を埋め立て、道路と変貌し今に至っている。
 Enzinoは、事務所をヴィスコンティディモドゥローネに持っていた。
via dell Spigaまで、徒歩2分、スカラ座まで5分の距離である。
 セルベッローニ宮殿での扉が、まさにミラノ生活への扉となった。