船橋 芳信

2019 20 Jun

第18回アトリエコンサート

第18回アトリエコンサート 6月2日 令和元年
 ヴァイオリン山懸郁音さんとピアノ有島京さんのデュオコンサートでした。
プログラムは、ストラビンスキの「イタリア組曲」、リヒャルト・シュトラウスの「ヴァイオリンソナタ変ホ長調作品18」。
イタリア組曲は、優しい旋律が、イタリアらしさを感じるさせます。
ピアノを弾く指の動き、リズムと旋律の流れ、バロック音楽から曲想をとったと言うヴァイオリンのメロディーとのコンビネーション、
デュオはピアノを聴くのかヴァイオリンを聴くのか、素人には同時に二つの楽器を聴くと言う器用なことはできない。
リズムなのかメロディーなのか、先行する聴覚に頼りながら、ヴァイオリンの奏でるメロディーとピアノの叩く音楽の演奏に漂う。
 リヒャルト・シュトラウスの音楽性と其の人間性に深い共感を抱いたヴァイオリンソナタだった。
 「ヴァイオリンソナタ変ホ長調作品18」リヒャルト・シュトラウスは、好きなドイツの作曲家、オペラは、影のない女を、スカラ座で幾度も聴いた。
 リヒャルト・シュトラウスは、何故かニーチェと繋がっている。
スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」で使われたあの冒頭の曲、
「ツァラストラはかく語りき」の有名な前奏曲に在る。
シュトラウスは、1864年6月11日にバイエルン王国ミュンヘンで生まれた。シュトラウスは幼いときから父親によって徹底した、
しかし保守的な音楽教育を受け、非常に早い時期から作曲を始めた。
 ドイツの作曲家の中で、好きな作曲家が、リヒャルトシュトラウス、メロディーと言い、オペラのストーリーと言い、
何処かイタリアの音楽性に通じるものを感じるからである。
 一説に依ると、彼の作品の作曲は恐妻家、パウリーナ婦人の叱咤激励に在ったと言う。
パウリーネがどのような人物であったかは、マーラーが妻アルマに送った1907年1月の手紙で、
マーラーがベルリンに住んでいたシュトラウスの家を訪ねた際のことを書き残している。
(以下マーラーの文章)「パウリーネは私を出迎えると自分の部屋に私を引っ張り込み、ありとあらゆるつまらぬ話を豪雨のように浴びせかけ、
私に質問の矢を放つのだが、私に口を出す暇を与えないのだ。それから疲れて寝ているシュトラウスの部屋へ、
私を両手で掴んで有無を言わせず引っ張って行き、金切り声で“起きてちょうだい、グスタフが来たのよ!”。
シュトラウスは受難者めいた顔つきで苦笑しながら起きると、今度は3人で先程の話の蒸し返し、
それからお茶を飲み、パウリーネに土曜日の昼食を一緒にすることを約束させられて、2人に宿泊先のホテルまで送ってもらった。」
 1898年、最後の交響詩『英雄の生涯』(Ein Heldenleben)を書き上げたシュトラウスは、関心をオペラに向けるようになった。
このジャンルでの最初の試みである『グントラム』(1894年作曲)は主に自作の稚拙な台本のせいで酷評され失敗に終った。
続く『火の危機』(1901年作曲)もミュンヘン方言のオペラということもあり、一定の評価を収めたにとどまった。
しかし、1905年オスカー・ワイルドの戯曲のドイツ語訳に作曲した『サロメ』(Salome)を初演すると、空前の反響を呼んだ。
ただし、聖書を題材にしていることや、エロティックな内容が反社会的とされ、ウィーンを始め上演禁止になったところも多い。
ニューヨークメトロポリタン歌劇場がこの作品を上演した時などは、終演後の聴衆の怒号の余りの激しさにたった1回で
公演中止になったほどであった。マーラーら、当時の作曲家達はその前衛的な内容に深く共感し、
シュトラウスはオペラ作曲家としての輝かしい第一歩を踏み出した。
シュトラウスの次のオペラは『エレクトラ』で、前衛的手法をさらに徹底的に推し進めた。
多調、不協和音の躊躇なき使用などを行い、調性音楽の限界を超えて無調音楽の一歩手前までに迫った。
この作品はシュトラウスが詩人フーゴ・フォン・ホーフマンスタールと協力した最初のオペラでもある。
このコンビはホーフマンスタールが死去するまで、音楽史上稀に見る実り豊かな共作を続けていくことになる。(一部ウィキペディア参照)
 
 今回のアトリエコンサートのメニューは、
1)ポークロースと牛ランプ肉のグリルをスライスしてイチゴ、ミルティルリ、柘榴の実を鍋で煮て作ったミックスソース、
2)果物サラダ、ブルーべリー、イチゴ、柘榴、洋梨、グリーンピース、さくらんぼ、バナナの果実と野菜サラダ
3)ポークカレー、レンズ豆
4)豆腐カレー、白い御飯
5)鳥の唐揚げ

こんな感じでした。
ワインは、プロセッコとアルトアダージョの白ワインでした