北村 禎宏

2019 04 Dec

動物より人間

 日本の動物園が欧米からの圧力に四苦八苦させられている。圧の源泉は「動物の福祉」という思想だ。そこでは五つの自由が問われる。「飢えと渇き」「不快」「痛み・障害・病気」「恐怖・抑圧」「正常な行動の表現」。動物の所有権は留保したまま貸し借りをするブリーディングローンまでもが一般化しているが欧米の実態だ。

 その立ち位置から見れば日本の動物園の現状は捨ておくわけにはいかないと映るのも当然であろう。ただし、ここで先進と後進と考えてはならないことに注意が必要だ。欧米とりわけ欧には自分たちが文明の牽引者として一番前を走っている、すなわちこの地球上でもっとも優れた人類だという強い自負がある。そこに風穴を空けて大きな議論を巻き起こしたのはジャレド・ダイヤモンド(銃・病原菌・鉄)だった。

 わが国は明治維新以降急速に西洋化を推進し、大戦後の高度成長を経て先進国の仲間入りを果たすにいたった。その過程で貫かれていた基本的考え方は「追いつけ・追い越せ」という先進後進のパラダイムだ。西洋至上主義を標榜する学者や識者も少なくないどころか多数派を占めている。

 ここで立ち止まって「ちょっと待て、ほんとにそうか?」と考え直すことが求められる。先進後進とは何を主語にして語っているのかと。理論であれば知識の問題、工業力をはじめとするGDPであれば経済、民主化であれば政治の問題になってくる。もっとも粒度の大きい対立概念は文明と文化だ。文明の程度は限りなく一直線上に引くことが可能で、その二次元上の現在位置をもって先進後進と判断することは比較的容易だ。その一方で文化となると二次元ではなく三次元以上の空間で無限にプロットされる、広がりも深さも伴った私たち人類固有のもっとも尊重し大切にされるべき財産だと言える。そこには宇宙空間と同じで中心もなければ果ても存在しない。相対的に違いが認識できるだけで絶対的優劣を問うことは意味をなさない。

 わが国固有の文化を持ち込むと動物の福祉という考えは欧米のそれとは若干異なる座標軸に位置付けられる可能性が高い。文化は歴史とともに醸成されると考えると、平安貴族と牛、西洋貴族と馬、武士や騎士と馬、日本の農民と馬や鶏、遊牧民族にとってのヤギや羊など、生きていくための家畜との暮らしが大きく影響を及ぼしていると考えられるからだ。

 誤解を恐れずに丸めて話すと、西洋において家畜は人間の次に大切にされるべきもの、日本においては畜生という言葉にもあるように最劣後におかれてきた。奴隷を家畜と考えていた当時の米国では、家族よりも先に奴隷にエサとしての食事を供していたという。文化がからむ問題を一直線上に置いて是々非々や後先を議論するのはあまりにも危険だ。クジラやイルカと歴史をともにしてきたわが国の事情は固有かつ尊重されるべき文化であり、かならずしも全否定してよいものかどうか慎重な議論が求められる。西洋からやってきたTDLやUSJが万単位の入場料で潤い、固有の文化の集積地である動物園が数百円の入園料をどうするかで悩まされている現状を強く憂う。

 片方で人間の方がよっぽど危ういところに追いやられていることを見過ごしてはならない。首都直下型地震による死者は2万人を超えると想定されその7割以上が焼死によるとされている。首都圏の木造家屋密集地帯に暮らす人々に対する福祉の充実の方がよっぽど優先順位は高い。さらに、日本人(15歳)の読解力が続落しているとの報もあった。ICT環境に対する対応の遅れ、活用力の弱さ、そして格差が指摘されている。前者はスマホやPCを遊び以外でも使え、真ん中はググらないで辞書や百科事典を引けとなるが、後者は資本主義下にある以上、もっとも深刻な問題だ。真ん中も、いまや辞書や百科事典がない家庭も急増していると想像される。私の世代は若いころ使っていた辞書類はかろうじて書棚に眠っているが、子供のころ親しんだ百科事典はもはやそこにはない。

 いまの若い人々から学習の自由や成長の自由などの福祉が奪われたり損なわれてはいないか?山本七平や中根千枝の日本人論をどーんと前提に据えた足腰の強い思惟と議論を怠ってはならない。