北村 禎宏

2020 24 Feb

哲学的争い

 公正取引委員会とは法律論争もさることながら、哲学的争いになる可能性が高い。レリアンは返品値引きが下請法に反する旨のは是正勧告には従ったが、損失を与えたことに対しては真っ向から反論している。納入メーカー10社も共同で「下請け業者いじめの認識はない」旨の声明を発表していることから、当事者には主観的な認識はなかったものと想像される。

 確認のための発注書を切っている事実があれば、当局が製造委託契約であったとみなすのは妥当な判断だ。主観的には認識はなかったとしても客観的にどのように認定されるかが法律論争だと一般的には考えられているが、そこには哲学的議論が入り込む余地が大いにある。

 アパレルと百貨店が長年の商習慣として培ってきた消化仕入れ方式が製造委託とみなされる可能性はない。商品が百貨店のレジを通った瞬間に仕入伝票が計上されるので、それまでの全ての意思決定とアクションはアパレル側が自分の意思とリスクで勝手にやっているに過ぎないからだ。百貨店には会計上は商品粗利が発生していることになるが、実質的には家賃に等しい科目である。ここでは「主観=場所代」「客観=商品粗利」という方程式になる。

 百貨店は一種のディベロッパーであり、広義のプラットフォームビジネスを運営してきたともいえる。一方でレリアンのケースは、「主観=いじめではない」「客観=下請法違反」という図式になる。小売としてのレリアンが消化仕入れ的にメーカーと取り組むことはごく当たり前の歴史的経緯と着地点であると考えられる。これもかなり広い意味でぼプラットフォームビジネスとみることもできる。つまり小売のプラットフォームが屋上屋を形成しているという恰好だ。経済合理性の観点からは疑問の残るサプライチェーンだが、足腰の強いPFだという見方もできなくはない。

 土俵は経済論争ではなく法律論争だ。法に照らし合わせて客観的構成要件が整っているかどうかで適法違法を認定するのが法律の世界だ。哲学では「私たち人類がいなくなると“赤い夕焼け”もこの世から消えてなくなる」と考える。客観的事実としての赤い夕焼けが自然界に
存在しているわけもなく、それを主観的に認識する私たちに“赤い色だね”という申し合わせが成立しているに過ぎないとなる。

 法律論争における客観的事実はあくまでも出発点となる媒介に過ぎず、最終的には主観的認識同士の戦いになる。刑法で厳格な罪刑法定主義を標榜する法の世界は、出発点としての客観的事実の重要性をうたったうえで、裁判においては事実認定と裁判官の心象形成が鍵となると説くので、十分にそのことを承知している。

 主観により認識された客観的事実をどのように主観同士でけりをつけるかが問われるので、公正取引委員会との対峙はとりわけ哲学的色合いが強くならざるを得ない。もちろん私は主観的には業界側の認識に立っている。