北村 禎宏
論理より倫理
年明け、MBAの小さな同窓会があった。
5人のこぢんまりとした集まりだったが、年相応の議論で大いに盛り上がった。
なかでも「論理より倫理」に関する議論が印象に残った。ビジネスロジックをはじめとして、あらゆる論理は言語体系に依存し、
あらかじめ世界を文節した言葉に囚われているという問題意識だ。世界を文節するのは西洋思想と科学が得意としてきた常套手段だ。対して東洋の仏教の力を借りれば、言葉以前の世界を“感じる”ようになり、言葉が指し示すものの本質が何か、言葉がどのように世界を切り分けてしまっているのかについて鋭敏になれるという。その上で自他合一の境地に達することができれば、それはすなわち「倫理」なのではないか。
宴の半ばからは与太話が増えてしまったが、倫理は昨年後半から気になっていたキーワードなので、その議論にはハマった。
ハラリの言う超エリートは、狭義では未来的に無用者階級の仕事を奪うAIやITを制御する側の人間という意味だ。その厳密な定義や比率については百論が尽きないだろうが、少なくとも今の時代において広義には、国を超えて乗り込んできたCEOやJOCのトップ、このご時世になっても未だ高給を食んでいるだろう一部のパイロットもその範囲に入ると考えられる。
それらの人々にとってのロジックは、多の人々や文化にとってはロジックたりえない事態が頻発している。利害関係や民族、文化を超越した人類共通の「倫理」が必要とされている。自然科学は宇宙共通の摂理である社会科学には境目がある。経営学もビジネスロジックも社会科学である以上、普遍性には限界がある。
熟年離婚の根っこも同じ所にあるように思えてならない。会社という社会から家庭という異なる社会に24時間365日体制にシフトしたとき、共通の倫理が可視化されて受け入れ合うことができていないときにその悲劇は訪れる。
熟年に限らずあらゆる世代の人々が、他人事ではなく我が事として考えなければならない今時のテーマだと思う。