北村 禎宏

2019 18 Dec

入試改革の頓挫

 英語に引き続き、国語と数学の記述式が白紙撤回された。これまでの準備に携わってきた多くの人々の労苦と今後の機会損失の大きさは相当な規模に及ぶと想像される。ただし後者に関しては限られた私企業の便益とひもついていることから微妙なところがある。

 何よりも主役は受験生であり、50万人ともいわれる彼ら彼女らをこれ以上振り回すことは避けなければならない。「思考力」「判断力」「表現力」を問うことが趣旨とされているが、それらの因果律を紐解くと次のようになる。

 「思考力→判断力→表現力」という連鎖は決してクローズド・システム(閉じた系)として独立して存在することはない。誰かの表現力に依存したアウトプットをインプットしなければ「思考」は始まらない。すなわち「表現力→理解力→思考力→判断力→表現力→…」と無限ループが存在しているわけだ。

 いまに始まったことではないが、日本語力の低下がもの凄いスピードで進んでいる。「言葉遣いは厳密かつ丁寧に」は、特に問題解決の議論で念押しする重要なポイントである。現状の把握がままならず、あるべき姿の定義が曖昧だと差分としての問題をいつまでたっても見定めることができないからだ。

 日本語は便利さと危うさを表裏一体紙一重で抱え込んでいる希少な言語である。もっとも大きな特徴は「主語を省いても会話が成立し得る」と「単数形と複数形を区別しない」の二点だ。他にも「SVOCをいかように倒置しても表現ができる」アメーバのごとき言語なのだ。

 歴史的にも地理的にも極めてハイコンテクストな環境にあったことによる独自の言葉の進化だと考えられるが、不可逆的に進展するダイバーシティ・インクルージョンを掛け声だけに終わらせないためにも、日本語の特徴の理解とそれを踏まえた丁寧な表現が求められる。

 現在の大学進学率はおよそ50%だといわれている。先の大戦前後では10%ほど。大正時代は3~5%ほど。明治まで遡れば約1%になる。過去において大学に入ることはなんと狭き門であったことか。

 話はそれるが、狭き門とは競争が激しく難しいことのたとえとして日本語として定着してしまった。しかし敬虔なキリスト教徒からは誤用だと批判にさらされかねない。山本七平はかなりやかましく記述している。マタイによる福音書7章13節には「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」とある。

 皆が殺到する安易で楽な道は破滅につながりかねない。自力で狭い門を見つけて細い道を辿らなければ成功はままならないという意味だ。「私は門である。わたしを通って入るものは救われる」ともイエスは言う。他者との競争というニュアンスは皆無で、むしろ自分との闘い、自分の選択の問題を問うているのがオリジナルの意味だ。

 偏差値で考ると明治から大正にかけてはおよそ70以上が、昭和になってから戦時中まではおよそ65以上の生徒が大学に進学していたことになる。それがいまや50を超えていればみんな大学生だ。数理的には全入の時代もすぐ目の前にまでやってきている。

 必要なのは入口の改革ではなく、入った後の過ごし方と出口の改革だ。何よりも徹底的に鍛えなければならないのは「思惟力」「記述力」「口述力」である。学部ではまともに勉強しなかった私も、MBAのカリキュラムを通じてそれらを鍛錬する機会を得ることができた。

 それでも「きけわだつみのこえ」に代表される当時の大学生の考える力と書く力には舌を巻く。
優れた記述が淘汰されて残されてきたという点では母集団を必ずしも代表していない可能性もあるが、大学生に限らず今どきの私たちに、あれだけの思索と表現ができるかというと、まったくもっておよびもつかない。

 一億総中流といわれた古きよき時代は遠い昔のことになってしまったが、一億弱総日本語不自由とならないような未来に備えなければ、大変なことになる。