北村 禎宏

2019 18 Aug

闘いのルールが変わる

 香港での抗議活動は沈静化もままならず混迷の度合いを深める一方だ。闘い方のルールが変わってしまったことも要因のひとつであると考えられる。

 もともと闘争すなわち戦争にはルールと作法が存在した。そもそもの戦争の目的は交渉に勝つことで、相手方を壊滅させることではない。さらに、民間人を巻き込んだり対象にすることもタブーとされてきた。それらの古典的ルールは歴史を経て徐々にj崩壊して現在に至っている。迫りくる元寇に対して「やーやー我こそは!」と自己紹介をしている隙に火薬をつかった殺戮兵器にしてやられた鎌倉の武士たちは、さぞや面食らったであろう。

 その後、第一次世界大戦で大きく様相が変わる。大量破壊兵器としての機関銃、航空機を使った攻防、毒ガスが登場したのはここからだった。戦死者のオーダーも桁が二つ以上異なり、市街地や市民が犠牲になることもここから始まった。関ケ原の戦いで農民や農村が棄損したとは考えられない。第二次世界大戦におけるルール無用については、説明する必要もなかろう。罪もない一般市民が爆撃の対象にされたことに、敗戦国である我が国は文句のひとつも言うことができていない忸怩たる思いだけが残る。

 戦う当事者同士の組織的基本ルールは、指導者がいて管理者がいて末端の兵士は命令を忠実に履行しているだけというものであった。それが今や、SNSを通じて指導者やヒエラルキーの存在しない闘争活動が可能な時代となり、香港ではそれが日々実践されている。反対勢力からすれば、叩いても叩いても壊滅させることができないスライムのようなアメーバを相手にしていることになる
そもそも叩くべき対象を実体として認識することができない。まさに仏教でいうところの「空」が相手だ。

 あるけれどないし、ないけれとある空というやつはまことに取り扱いが困難だ。既存の戦略と戦術が使い物にならないので、泥仕合が長引く。第四次産業革命の影響は闘いの場にも及んで現在進行形だ。