内田 文雄

2017 12 Dec

私が中国で起業することになったキッカケ 2!(ワールドがアジア向けに新たなブランドを投入した時代編)

留学後そのまま上海ワールドに駐在していた1995年、突然の帰任命令が下りました。要はワールド本社の海外事業部の中にアジア向け(当面は中国が対象国)に新たなブランドを開発する、その中でVMD面も強化するので、その役割を担いなさい、と。

 

私自身は寝耳に水の辞令、正直もう少し上海に根を下ろし、現場を勉強したかったから...。でも気持ちを入れ替え、一度本社に戻りこれまでの留学で身につけた語学、そしてマーケット感覚を活かした仕事をやってみようと決断しました。もちろん、将来中国で起業する!という熱い志は捨ててはいませんでした。

 

新たなブランドはFA:GE(ファージュ)というレディスブランド、商品デザインは当時のUNTITLED(アンタイトル)のデザイン、クリエイティブ面を見られていた、シンクロクロッシングズの山岸さん、松田さんが監修されていて、私は売場全般(VMD、インテリア、フライヤーなど)の担当として、毎週のように神戸から東京に出張し、クリエイティブの洗礼(ダメ出し)を受けていました。自分のセンスのなさも感じていたし、相当落ち込んでいた時期でもあります。ただ、ファッションの先端の方々と接することができて、メチャクチャ勉強になりました。インテリアデザイナーのalcove designの鈴木さんにも本当にお世話になりました。

この時の海外事業部の渡辺博司さん、手柴さん、芦田さん、同期の野村さん、荻野さん、河野さん、羽多野ちゃん達にも、色々助けられたなぁ。

服同様にミニマリズムなインテリアでした

 

 

FA:GE1号店を北京の国際貿易中心(国貿)に出すことになり、頻繁に極寒の北京に通いだしました。同時に上海でも、太平洋百貨(台湾系)や華亭伊勢丹、人民広場の地下街など、出店が加速。北京のSOGO、そして青島JUSCO、大連マイカル等の日系百貨店、GMSにも出店し、ブランド創設2年くらいで15店舗ほどの直営店網ができたと記憶しています。

 

当時の日系アパレル企業といえば、ワールド、オンワード樫山、イトキンという、旧大手アパレルが、百貨店を中心に中国市場を攻めていた時代。FA:GE自身は感度の高さと、或る意味着る人を選ぶ服として、一定のファンに支えられ、店舗網は代理店も加わり中国全土に増えていきました。

2000年初頭には香港、シンガポール、台湾にも数店舗ですが出店するも、知名度の低さとお客さんの嗜好の違い、商品供給の問題からか、売上は芳しいものではなく撤退を余儀なくされる国も出てきました。

 

ですが、この90年代後半から2000年初頭にかけてが、後にも先にもワールドとして綿密な戦略を持って海外販路拡大を本気で行った時期だと思います。

OZOC、INDIVI、UNTITLED、CORDIER、adabat、その後のTAKEO KIKUCHI、aqua girl...等、中国以外の国々でも、まだまだ百貨店の集客力が絶大で、その力を借りて店舗網、売上も拡大していた時期です。

この頃になると、私もFA:GEだけのVMDではなく、上述の全てのワールドのブランドの海外VMD支援を担う仕事に変化していました。毎月3週間近くは海外出張でほとんど日本にいない生活、中国→台湾→韓国→香港→シンガポールというように5つの国(地域)を飛び回っていた時代です。この生活が約10年近く続きました。

しかし、多忙でしたが、各国のVMDマネージャーを取りまとめる考え方や、手法等は、その後のユニクロのグローバル展開のVMDマネジメントに活かすことができました。

そうこうしているうちに44歳と、もう若くはない年齢になり「早く起業しなければ!」と焦り出す自分がいて、自問自答する日々が続きました。

 

次回は「ワールドを退職し、ユニクロに転職した時代編」です。

 

それでは!